unfortunate

 

 切り裂きジャックは売春婦を殺した、またはそのように信じられてきたが、5人の犠牲者のうち3人に関しては、売春婦だったと示唆する確固たる証拠はない。暗い空き地や路地で遺体が見つかるやいなや、警察は、彼女たちは売春婦であり、性交目的でここへ誘いこんだ変質者に殺害されたのだと推測した。これについても、当時も現在もまったく証拠はない。それどころか、検死審問の過程で、切り裂きジャックは被害者と一度も性交していないことが確認されているのだ。さらに、どの事件も争った形跡はなく、殺害は完全な静寂のなかで行われたらしい。付近にいた誰も悲鳴を聞いていないのだ。……警察は、犯人は売春婦を選んで殺害しているという自説にこだわりすぎたため、自明なはずの結論にたどり着けなかった。その結論とは次のとおり――切り裂きジャックは、就寝中の女性をターゲットにしていたのである。……

 本書は、犯人を追い詰め特定することを目的として書かれたものではない。5人の女性の足取りをたどりなおし、時代の文脈のなかで彼女たちの経験を考察し、暗がりのなかでも光のなかでも、彼女たちの人生を追って行こうとするものである。これまでわれわれは彼女たちのことを、人間のかたちをした空っぽの鞘のように思ってきたが、実際はそんなものではない。彼女たちは母を求めて泣き叫ぶ子どもだった。彼女たちは恋する娘だった。彼女たちは出産に耐え、両親の死を経験した。彼女たちは笑顔でクリスマスを祝った。きょうだいと喧嘩し、すすり泣き、夢を見、傷つき、ちょっとした勝利も得た。彼女たちの人生は、ヴィクトリア時代の他の多くの女性たちの人生と変わらなかったけれど、ただその終わり方だけがあまりに特異であった。わたしは本書を彼女たちのために書いている。それによって彼女たちの物語がよりはっきりと聞こえるようになれば、そして、命が奪われると同時にもうひとつ残酷に奪われてしまったものを、彼女たちに返すことができればと望んでいる――つまり、彼女たちの尊厳を。

 

 その女性はかつて、「清潔な水と充分な排水、新鮮な空気」を希求する労働者階級のユートピア、ピーボディ・ビルディングに暮らしていた。「職人たちのほとんどが、天井が崩れかけ、虫の湧いている部屋に住んでいた」その時代に、その物件は「レンガ造りで床は板張り、壁は真っ白なセメント」、ガス、水道にゆったりとした間取りを備えていた。アメリカ人企業家の「この社会実験の結果をあたうかぎり最良のものとすべく、……『貧困労働者のなかで最もふさわしい者』、すなわち、週あたりの家賃の支払い手段だけでなく、適切な道徳的性格をも提示できた者たちだけに対し入居」は認められた、その審査を彼女と配偶者は晴れてパスしていた。

 転落のきっかけは、おそらくは夫の不倫だった。その相手は、よりにもよってピーボディの隣人だった。あるいはそれは単に彼女の妄想に過ぎなかったのしれない、しかしいずれにせよ、彼女は子どもたちを残してひとり家を飛び出した。たとえ夫に多少の不貞行為があろうとも、「妻は家族と同居せねばならず、政府も教区役人も法も、女性が容易に婚姻関係を離脱できるようにはしたがらなかった」。ヴィクトリア朝の道徳は、あくまで家族の相互扶助の他に事実上、何のセーフティネットも用意しなかった。やがて夫からの生活費すらも打ち切られた彼女が、ロンドンの底辺、ロッジングハウス――その惨状が、ピーボディ・ビルディングの発案を促した、あのディストピア――に流れ着いたのは、そして切り裂きジャックをたぐり寄せたのさえも、必然だった。

 

 その女性の「物語はこの幸せのまま終わることもありえたかもしれない。紳士の邸宅の敷地で、中流階級の穏やかな安らぎのうちに暮らし、夫婦でこつこつお金を貯めて、子どもたちに教育を受けさせ、ジョンの退職後はウィンザーの小さな家で暮らす、そのようにして物語が終わることもありえたかもしれない」。

 その「物語」を変えたのが、酒だった。その由来が、やはりアルコール中毒の末に自ら喉をかき切った父から続く「呪い」だったのか、はたまた「夫に一日中留守にされている若い妻」にいかにもありがちな嗜癖だったのか、は定かではない、しかしいずれにせよ、彼女は重度の依存症に侵されていた。8人を出産するも、うち6人は生後間もなくして死亡。「19世紀後半の科学は、母親の飲酒と子どもの病気との関係をすでに発見しつつあ」り、彼女もまた相次ぐ悲劇の原因に薄々と言わず気づいていたことだろう、それでもなお、断つことができなかった。

 治療プログラムも空振りに終わり、やがて彼女は自ら家族を降りる。「女性についての当時の定義からすれば、彼女は女性失格だった。子どもたちの母であることも、夫のために過程を維持することも、自分自身さえをも含めて誰の世話をすることも、不可能な女だと彼女は証明してしまっていた。……ヴィクトリア時代の社会は失敗した女を堕落した女と同一視した」。セルフ・ネグレクトの淵で、浮浪者と化して、おそらくは結核に蝕まれ、それでもなお、彼女は飲酒を止めることができなかった。「その夜殺人者が奪ったものは、すでに酒によって奪いつくされたあとの、かろうじての残滓に過ぎなかった」。

 

 その女性は、15歳にして両親を失い、遠い親戚のもとへと奉公に出る。それから数年、与えられた職場で窃盗を働いたことでその地を追われて、別の血縁を頼りに新天地へと旅立つ。もっとも彼女はそのとき既に気づいていただろう、「結婚すれば母と同じ人生が待っている。出産の痛み、子育ての疲弊、不安、飢え、消耗、そして最後には、病と死」。

 ところが彼女に割り振られたのは、それ未満のライフ・パッケージだった。

 第一子を出産した救貧院病院からして、「壊れたトイレがむき出しの下水と化し、清掃に消毒液が使われず、石鹸と水を使用せずに分娩が行われる」、そんな「道の脇の泥にまみれ」るよりは少しだけマシな場所だった。そんな彼女をさらに追い詰めたのが夫のDVだった。ヴィクトリアの道徳に則れば、「家庭内のある程度の暴力は、しつけの役割を果たすと見なされていた。平手打ちの罰をくらわしても夫は何ら良心の呵責を感じることがなく、妻のほうは多くの場合、自分が『それを求めた』のだと思いこまされた」。良識のある姉もさすがに看過できなかった、しかしそれでも彼女は、現代のDVカップルが少なからずそうするように、夫のもとへと戻っていった。

 虐待夫とようやく切れて、また別の男と懇ろになる。生活レベルはさらに落ち、彼とともに「いるようになってからの彼女は家無しで、ただ安宿のひどいベッドを借りているだけになってしまった」。その男に彼女が求めたのは「路上泊中に守ってくれたり、時々稼いでくれ」ること、ただそれだけで「生きのびることはもう少し簡単になる」。彼女はそのとき既に、泥酔してひとり倒れ込む自身が切り裂きジャックを呼び込んでしまうその未来を予知していたのかもしれない。

 

 模倣犯によると推定されない、彼女たち5人の犠牲者canonical fiveについて、本書は切り裂きジャックならざるもうひとりの主犯格を告発せずにはいない、つまり、自己責任と家族の絆をまるで壊れかけのbotのように喚き散らすことしかできない、ヴィクトリアの道徳観念である。

 彼女たちは命を奪われてなお、この腐敗した倫理のセカンド・レイプにさらされ続けた。溺れる犬を棒で叩け、堕落した女性にはいかなる罵倒も容認された、その最悪のテンプレ・ワードが「売春婦」であったというにすぎない。ひとりを除いて「ごく単純に言って、この4人のうち誰ひとりについても、売春婦だと自認していた、もしくは共同体から性産業従事者と見なされていた証拠は存在しない」ことをたとえ当時において叫んでいたところで、19世紀の彼らが被害者たちへと注ぐその眼差しを変えることはできなかっただろう。

「犠牲者は『ただの売春婦』だったというとらえ方は、女性はよい女性と悪い女性、すなわち聖女と淫売とに分けられるという考え方を延命させる」、そのまさに「延命」の証拠を日々まざまざと見せつけられる。ホストに金を巻き上げられるのは女の側の自己責任で、ソープやパパ活に沈もうが、だから救済などいらないのだ、と。クズ芸人についていく女の側にも原因はある、だからどっちもどっちではないか、と。

 そんな時代だからこそ、あえて改めて切り裂きジャックが掘り起こされて再検討されることにはなおいっそうの意味がある。煽情的とは程遠い、三文小説のような脚色が施されることもない、資料に基づいた冷静な筆致を貫きながら、どこか読者が彼女たちに親近感を覚えることを促さずにはいない。彼女たちは不運にもボタンをかけ違えただけの、どこにでもいるごく普通の女性だったのだ、と。セーフティ・ネットが用意されていなかったことが切り裂きジャックを呼び込んでしまった、彼女たちはそんな不運な被害者なのだ、と。

 切り裂きジャックの被害者は決して『ただの売春婦』ではない。彼女たちは娘であり、妻であり、母であり、姉妹であり、恋人であった。彼女たちは女性だった。彼女たちは人間だったのであり、そして確かに、それだけでもう充分なのだ。

 

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