いなせなロコモーション

 

「ガングロ」という言葉は、1990年代後半に現れた言葉で、「ガンガン黒く焼いた肌の色」を表す。……

「ガングロ・ルック」は1990年代後期の渋谷で、他の時代、他の場所では見たことのないようなものになっていく。源流をたどっていくと、日本より古くから「ガングロ・ルック」があったのは、ヨーロッパやアメリカなどだ。そこで1章では、ヨーロッパやアメリカの「ガングロ・ルック」が、どのように日本に入ってきたのかを紐解く。そして2章で、渋谷の「ガングロ・ルック」が、どのように独自の発展をしていったのか、そして衰退したのかを紐解く。

 それをもとに、インターネットが、若者たちから盗んだ「魔法」とは何だったのか、なぜ渋谷が「魔法」の使える街だったのかを探る。そして、その正体が「魔法」ではなく「メディア技術」だったことを明らかにしていく。

 

 新たな商品やサービスが浸透して定番へと様変わりしていくには、いくつかのフェイズがあるという。

 いわばファースト・ペンギン的な消費者たちが、しばしばその新味にすら気づかぬままにとりあえず手を出す。周囲の目には、あるいはけったいなものと映るかもしれない、いや大概の場合においては視界にすらも入らない、そうして大半の代物は程なく淘汰されていく。そんな中で市場の選好をなぜかすり抜けたいくつかのコンテンツが、倍々ゲームのように膨らんでやがて閾値を超えて、さらにそこでマス・メディアの目に引っかかることでさらに増幅されて、時として社会現象と呼ばれるまでの流行への上り詰め、その後あるものはフェイド・アウトし、またあるものはすっかり人口に膾炙して生き残る。

 そしてそのころファースト・ペンギンたちは、「ナショナル」であることのクソダサさに嫌気がさして、とっくに別のアイテムへと飛び移っている。

 

 ガングロたちの変遷は、こうした旧来型のメディア・モデル下の流行の波が描く典型的な推移をたどる。

 もともとその日焼けした肌は、ビーチ・サイドの陽射しから生み出された。映画などを通じてアメリカ西海岸線から太平洋をまたいで渡ってきただろうそのトレンドは、しかし陸へと上がり込むことで間もなくその意味を脱臼させていく。肌は砂浜ではなく日サロで焼く、髪の脱色やダメージは海水ではなく美容院で作る、天然物から養殖物へ、そうした層が渋谷の街を席巻する。彼女たちはプロトタイプの来歴など、気にも留めない。

 文脈が失われて記号だけが残る、この作用を媒介するのは皮肉にもマス・メディアだった。

「ハリウッド映画やテレビなどの『マスメディア』のスターが示す『モデル』に従う外見が、ロサンゼルスのビーチで『大量生産』されるようになった。/……つまり、ロサンゼルスのビーチの『ローカル』な基準が、『マスメディア』が示す『モデル』になって、それが再び『ローカル』な基準になって、それに従った外見が『大量生産』される『サイクル』が生まれた」。

 この「サイクル」のスキームは、本書内でひたすらにリピートされる。

 

「大量生産」とはすなわち、大量消費の換言に他ならない。彼らがなぜにこの「サイクル」を循環させることができたのかといえば、それは端的に低価格で実現可能であったから。

 渋谷という街がガングロの震源地になりえたのは、単に東急東横線JR東海道本線が湘南とクラブを直通させるアクセスを担保していたからではない。

「安かった」のである。「1970年代中期の『渋谷』にはまだ、『ファイヤー通り』のような、家賃の安い場所が残っていたということだ。だから『すでに有名なブランド』でない店でも開業できたのだ」。闇市の名残を遺したその場所は、ファッション業界のベンチャーが勝負を仕掛けるには最適の立地だった。古いインフラだからこそ、逆説的に新しいムーヴメントが立ち現れる余地がある。ハイ・リッチの新築モールからは決してこのメタボリックは生まれない。

 地べたになんて座らせない、休みたければスタバでどうぞ、そうして街から若者たちは排除された。

 渋谷の雑踏がトレンドを作った、そんな時代が確かにあった、再開発の無菌空間からは決して芽の出ることのない。

 

 雑誌などのメディアを真に受けた読者たちが、「サイクル」の反復の中でカリカチュアを重ね、ある意味では元祖よりも元祖らしい様式美のエクストリームへとたどり着く。

 筆者が意図しなかっただろう文脈から、ただし似たような結論に期せずして至る。

 ウェスト・コーストと渋谷をつなぐ重要なパイプラインのひとつが、雑誌『ポパイ』だった、という。そのマニフェストにはこうあった。

「ポパイ創刊号では、カリフォルニアの若い世代の暮らし方、特に彼らのスポーツ・ライフを紹介することに、多くのページをさきました」。

 もっとも個人的には『ポパイ』自体はどうでもいい、あくまでこれは連想ゲームのささいなはじまり。

 ポスト・ヒッピーのナチュラル志向の路線が想定を超えて男性層に受け入れられて間もなく、平凡出版はその姉妹紙を発行する。新雑誌の名は例のコミック・キャラクターのガールフレンドから採られた。その名を『Olive』という。

 雑誌をクソ真面目に読み込んでやがてライフ・スタイルをジャックされる、その点において、ガングロとオリーブ少女は驚くほどに軌を一にする。

 周知の通り、オリーブ少女はカリフォルニア的な海と太陽に惹かれることはなかった。むしろ彼女たちは、ヨーロッパのど真ん中のパリ、リセエンヌ――実物は単にヤニ臭い――へと吸い寄せられていった。あたかも陽と陰、肌の色ひとつからして明確なこの分岐は、表面的には決定的なものとも見える。

 しかし、メディアを通じて形成されたすぐれて記号的な存在として自らを再定義するその作法において、この両者を隔てるべき論拠は何もない。

 

 ただし、彼女たちには同時に決定的な区別が横たわる。

 つまり、ガングロたちは渋谷のストリートという聖地を見つけた。対してオリーブ少女にとって依拠すべき場所とは、雑誌であり映画であり音楽であり衣服であった。前者はコトを、後者はモノを探求した。

 イマジナリーを欲したはずのRomantic Girlsの終着点は消費だった。

 対して、ガングロにとっての渋谷とはすなわち、ハレとケの図式そのまま、仮粧をまとって束の間のトランスを享楽する、カーニバルの空間だった。

「仮面を被っている間だけは、私ではなく、神様になる。」。

 自己実現とやらを欲しただろうオリーブ少女とは違う、ガングロは「私」を消した、祝祭の刹那の中に己を溶かした。

 彼女たちは「怒ってた」、そのクソ過ぎる終わりなき日常に。だからこそ、日常を忘我したいと「願い」を込めて、ガングロやゴングロに顔を固めて寄り集まって渋谷の街に舞い降りた。

 しかし、渋谷の街にもはやこのええじゃないかの空間が再現されることはない。インスタやティックトックのSNSフィルター・バブルの外側で、彼女たちを何かしらの仕方で触発することはもはやできない。同じ時間に同じストリートを歩こうとも、通りすがりの他者はどこまで行っても他者のまま。変わらない、変われない、ただひとり、「私」はどこまでも「私」であり続ける。

 もしかしたらオリーブ少女にも勝って極めてメディア的な存在であったガングロは、だからこそ、メディア環境の変質に誰よりも敏感だった。共有可能な言語の終わるとき、同時にマス・メディアは終わり、ガングロも終わる。

 奇しくもmediaの語源はラテン語medium、つまり中間媒体、わけても神と人とをつなぐ巫女を指していう。

 神とはすなわち紙だった。

 つなぐものをなくした聖女は、そうして天へと召されていった。

 

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