おかげさまで

 

「ええじゃないか」は約300年にわたる長い間、民衆を支配してきた徳川幕府が、政権を京都の朝廷に奉還し、幕府最後の年となった慶応三(1867)年の夏ごろから翌年のはじめにかけて、江戸、横浜、名古屋、大坂を結ぶ地域を中心に、日本のかなりの地方で、われわれの祖先たちをまきこみ、とらえ、かつ彼らによりひきおこされた現象であった。日本の民衆が個人としてではなく、民衆それ自身として一つの運動を、しかも、一揆のようにある特定の地域にとどまることなく、この「ええじゃないか」のように広範囲にひきおこした事例は、日本の民衆史のうえでもあまり類例がない。さらに慶応三年という幕藩体制(封建支配の体制)が崩れるという、まさに歴史の転機にあたって、ひきおこされたこの民衆の「ええじゃないか」は、そのことのみでも明治維新を考えるときに忘れられない事実だといえる。……

 たとえば、今日のわれわれの日常的な、また合理的な感覚や感情からすれば、どこからともなく舞い降ってきた神符や仏像などをきっかけに、これを祀り、祝い、乱舞に数日をついやすなどということは、常識からみて考えられもしないことである。もし、われわれの家の庭先や屋根に、これらの神符などが発見されたとしても、それは人々の関心をひくこともなく、たとい多少の注意が払われたとしても、風のもたらしたものくらいのことで忘れられてしまうにちがいない。だが、慶応三年の時点ではちがっていた。神符の降下により、民衆はその日常的な生活のわくをこえ、猥雑さを伴う熱狂状態におちこんでいったのである。幕末の民衆が「ええじゃないか」の叫び声をあげたのは、なぜであろうか。神符の降下をもって瑞兆と感じた民衆の背後には、どのような歴史的な、また宗教的な感情が存在してたのであろうか。また動乱期の民衆を「ええじゃないか」にまきこんでいった社会的背景はどのようなものであったのだろうか。そうして、民衆はそこからなにを感じとり、またどのようなものをうみだしたのであろうか。

 

 どこからともなく降ってきたお札を合図に、人々が三日三晩と「ええじゃないか」と歌いながら踊り狂う。女装に扮した男性と断層に扮した女性のあいだで、しばしばそこには乱交が持たれる。

 映像メディアなどままならぬ時代に、それどころか活字報道の前夜において、津々浦々の街角で予め示し合わせたかのように同様のレイヴ・パーティーが営まれたという。それだけ聴けば、それはあたかも幸島のサルを連想させずにいない、この地においてイモを海水ですすぐという知的アップデートが更新されると間もなく、まるで離れた別の場所においても、誰が伝えることができたはずもないのに、同期化されたかのように相似的な行動が観察されるようになった、という。

 もっとも、このサルの報告例は何もかもが一学者による全き捏造に過ぎなかった。そして「ええじゃないか」においても、ミームの存在を実証するかのように、ある日突然にそのようなリズムやビートを人々が奏ではじめたわけではなかった。もちろんそれは集団催眠やドラッグによるトリップといった類の、都市伝説的な代物でもない。分かってみればどうということもない種と仕掛けが、この「ええじゃないか」においても前もって埋め込まれていた。

 そのトリックの名をおかげ参りという。

 

 一生に一度、霊験あらたかな伊勢の聖地をめぐる、そんな敬虔なストイシズムとこの旅路は、どこまでも無縁だった。旅の恥はかき捨て、そんなことわざも由来をたどれば案外と、このおかげ参りに端を発しているのかもしれない。猥歌を大声でがなり散らしながら、その手にかざすは性器を模したオブジェの数々、善意の施しをたかるべく柄杓ももちろん欠かせない。盗みや人さらいも厭わないご一行に負けていられない、と売り手も売り手でこの特需に乗じて狂乱物価を貪らんとする。バブルの主産物としての人心の退廃は、この旅においても漏れなく観察される。

 もちろん、旅人の大多数は貧しい階層である。講の積み立てなどたかが知れている、ましてや少なからぬ者は着の身着のままでふらりと出奔してくるのである。喜捨を前提に辛うじて成り立つこのイベントから、施行主としては一刻も早く降りたくてたまらないところ、そうはさせじと煽るべく、空から御祓いが舞い落ちた。

 艱難辛苦からの逃避を約束する、こんなもっけの幸いのGO TOキャンペーンが後世に語り継がれぬはずがない。村々において祭りを通じてこの記憶が再生産と増幅を重ねて、ハレとケのこの反転現象は、間もなくおかげ踊りへと引き継がれていった。

 おかげ踊りがガス抜きの年中行事として機能していられるうちはまだよかったのかもしれない。不満の種は尽きずとも、ほんの数日で潮が引いたように、彼らはもとの日々に戻っていく。幕府がどれほど機能不全を来そうとも、混乱よりも秩序、ただその一点でリヴァイアサンの封建体制は支持を保つことができた。

 しかしその馬鹿げた現実逃避の末に社会の底が抜けた時、「ええじゃないか」と人々が歌いはじめた。よくねえよの日々だからこそ、反語として、反転として「ええじゃないか」と皆踊った。

 もちろん、札を乗せた神風がどこからともなく吹き込んだわけではない。誰かしらが眠れる記憶を焚きつけたのである。退廃と混乱の果て、ようやくに機は熟した。

 

「ただ注意すべきは」と筆者は警告を発する、「御祓の降下を契機に展開する無銭飲食やハレの日の状態の持続は、民衆が自ら意識してうみだした世直しではなく、それは民衆とは離れたところからもたらされた他動的な世直り」にすぎなかったのだ、と。自分たちで世を直すのではなく、ただひたすらに世が直るのを待つ、おかみが直してくれるのを待つ。

 明治維新をヨーロッパ近代革命になぞらえるこの安直なアプローチには、決定的な瑕疵がある。幕府から朝廷へとその政権が移譲されようとも、彼らは何も変わらなかったのだから。生活がいくら破綻しようとも、自ら変えていくのではなく、誰かが変えてくれる日を待ちわび続けた。奇跡を呼ぶそのカリスマの名を、将軍から天皇に置換したに過ぎなかった。いくら崇めども、何が変わることもなかった。

 こんな「他動的」の産物としての大日本帝国の終焉も、やはり空から降ってきた。二発の原爆は空から叩き落された。D.マッカーサーもヘリコプターで厚木の地へと降り立った。惰性の下り坂で突入したきり、自分たちでは無謀な戦争を打ち切ることすらできなかった。そしてこのレジーム・チェンジにおいてもまた、おかげさまでと仰ぎ見る権威の対象が天皇からアメリカへと入れ替えられたに過ぎなかった。

 明治の世でもそうだった、江戸の世でも、その前からもそうだった。昭和を経て、令和に至ってすら、阿諛追従の限りを尽くしておかみからの「世直り」が起きる日を彼らは愚直に望み続ける、そして食い物にされ続ける。「自ら意識してうみだ」す「世直し」をもってしか、この地獄の日々を終わらせることなどできないことを彼らは決して直視しようとはしない。

 今一度、何かしらの神風にそそのかされるまま、「ええじゃないか」を踊ったところで、そのアフターに何が広がることもない。おかげさまで、とヘコヘコ首を垂れる正体不明な抑圧主体の幻視を振り切って、各人が自分のためにリリックを紡ぐ、自分のためにダンスを踊る、そのときはじめて何かが変わる。

 

 

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com