ベルサイユのばら

 

 ――こんな人は、知らない。

 舞台袖から現れた、ひとりのダンサー。(中略)

 疑いようもなく、男の肉体だ。ほかの男性ダンサーよりも小柄だが、首は太く、身を反らすと喉ぼとけがくっきりと浮き上がる。太腿もふくらはぎも、遠目に見ればしなやかな曲線を描いているが、オペラグラスを向ければごつごつとした筋肉が目立つ。その太腿の間の青いひし形もようは微かにふくらんで、自身の肉体的な性別をまざまざと証明している。ボックス席の乙女が、気づいてしまった自分を恥じて、そっと睫毛を伏せる程度には。

 それなのに。口元の艶やかな薔薇色の微笑みは女そのもの。腕の動きはなめらかで、ときおり、しなをつくるように手を客席に伸べる。柔らかく膝を落としたかと思うと、次の瞬間には床を蹴って飛翔する。指揮棒が、オーケストラが、客席が、はっと息を呑み、天を仰ぎ、世界が鼓動を止める。

 ――こんな自分は、知らない。(中略)

 もしそれが21世紀であれば。

 そのことばもまた、「尊い」「しんどい」「無理」「待って」と同じ、極度の感激をあらわすことばとして発されただろう。

 

 だが、ときは1912年だった。そして彼女は1891年生まれの21歳の女性ロモラ・ド・プルスキーだった。言霊が暴発する条件は揃っていた。万雷の喝采を受け、腕を翼のように天高くひろげ、白鳥が嘴を湖面に浸すように身をかがめる、その男とも女ともつかない異形のきらめきを、ただなんとか理解して安心したいという衝動に駆り立てられた彼女は、ロベルト・シューマンの愛の調べを胸にかき抱きながら、取り返しのつかない一言を世界に放った。

「結婚したい……!!

 

「女性の身体は美しい。男性の身体は醜い」。

 それまでのパリのバレエ・シーンといえば、エドガー・ドガの《踊り子》の世界そのものだった。舞台はすべてパトロンの物色のためだけに奉仕する、「こうして堕落の一途をたどっていった」世界が、ロシアより舞い降りたるバレエ団と、そのエトワールである「ひとりのダンサー」によって更新される。

 その「舞踊の神」の名をワツラフ・ニジンスキーという。

 特権階級限定のクローズドなど遠い昔、ライブを観たければ金でチケットを買えばいい、この近代自由主義経済下で、例えばフランツ・リストの超絶技巧が数多の女性客を失神へと誘っていたように、追っかけとでも呼ぶべき消費行動の原型など当時において既にそう珍しいものではなかった。

 舞台上の貴公子に「結婚したい……!!」と羨望の眼差しを注ぐ女性は――あるいは男性も――、他にだっていたかもしれない。しかし、このロモラのケースは少しばかり訳が違った。まず、このハンガリーのお嬢様の家柄には斜陽といえど名声があった。ほぼ未経験にもかかわらず、今ならば研修生とでも呼ばれる程度の立場を買える、なけなしとはいえ金があった。行動力と情念だけではどうにもならない、「プティ」とお近づきになるためだけにバレエ・リュスに忍び込める各種資本が彼女にはあった。

 もっとも肝心の彼は、南米への船旅の最中でさえも、ロモラに一瞥すらくれようとはしなかった。彼女は猜疑に駆られる、「そもそも彼は、他人全般に興味がないのかもしれない」と。「舞台の上では神。舞台を降りればコミュニケーション下手なマイペース男子」、それゆえにこそ放たれうる超然とした気品こそが、彼を彼たらしめているのかもしれない、と。

 そうして失意の淵にあった「まるで少年のよう」な彼女は、ところがある日、他人を介して彼の真意を知るところとなる。

「ロモラさん。ことばの問題で、ニジンスキーはあなたと直接お話ができません。でも彼は、こう伝えたいとわたしに頼んできたのです。

 あなたと結婚したい、と」。

 

 私は神がかりではない。私は愛である。私は神がかり状態の感情である。私は愛の神がかり状態である。私は神がかり状態になる人間だ。私は言いたいが、言えない。書きたいが、書けない。私は神がかり状態なら書ける。私は感情を伴った神がかり状態だ。そしてこの神がかり状態のことを理性という。全ての人間は理性を備えている。理性を失いたくない。だから、すべての人が感情の神がかり状態になることを望む。妻は粉薬のせいで神がかり状態にある。私は神によって神がかり状態にある。神は私が眠ることを望む。私は眠り、書く。私は座って、眠る。私は眠らない。書いているから。人は私がばかばかしいことを書いていると思うだろうが、私の書いていることには深い意味があると言わなくてはならない。私は分別のある人間だ――

 神がかりなの? 神がかりじゃないの? 眠るの? 眠らないの? あれ、この人、何語喋ってるのかな、ついに脳みそのネジが取れちゃったのかな、とでももしかしたら少しくらいご心配いただけたかもしれない。大丈夫、だって私は私ではないから。

 実は、この上記数行は『ニジンスキーの手記』からの引用によっている。現代においてなお彼の名が広く語り継がれる理由のひとつは、陰謀論あり、被害妄想あり、内攻あり、全能感ありのこうした狂気のフルコースにある。今日ならば例えば統合失調症とでも診断されるようなこれら典型的な症例が果たして何に由来するのかを決することはもちろんできない。第一次世界大戦をめぐる危機と恐怖が彼をそうさせたのかもしれない。明日をも知れぬ経済的な苦境が彼の神経を責め苛んだ結果なのかもしれない。しかし、ワツラフを引き裂いたその強力なトリガーのひとつが、バレエ・リュスのファウンダー、セルゲイ・ディアギレフによって引かれたことにもはや疑いの余地はない。

 本書が上梓されたのは20235月のこと、そしてその原型となったウェブ連載は2021年に記されたという。いかにも数奇な時宜を本書は得てしまった。ディアギレフとニジンスキー、プロデューサーと美少年の間にあった性加害関係を、ジャニー喜多川による国連作業部会曰く人類史上最悪規模の虐待行為と紐づけせずに読み解け、という方が今や無理筋なのである。

 ましてや本書のもうひとつの推しの舞台はタカラヅカ、その異形性についても、あるいは報道に触れずとも、誰しもが薄々ならず気づいていた。阪急の駅のプラットフォームにて、髪をきつく結ったうら若き女性が滑り込んでくるマルーン・カラーの車体に向かって直立不動からその後直線的に首を垂れる。よく言えば凛とした、ストレートに言えば寒気がする、その過剰に強迫的なしぐさを一目見れば、誰しもがそこに軍隊的な規律の臭気をかぎ分けずにはいられない。そして異形が異形なればこそ、彼女たちは他を圧倒するブランドを獲得できた。

 同性間ゆえにこそ放たれうる何かを無邪気にも推すことのできた時代があった、そんなノスタルジーの残照として、たぶん本書は読み換えられる。

 

 テキスト終盤、歴史の奇遇に思わず私の腰が浮く。明石照子に魅せられた老境のロモラが、日本語の家庭教師を依頼したのは、チューリッヒに留学していたひとりの精神分析学者だった。その名を河合隼雄という。彼女はある日、河合に向けて打ち明けた、とされる。

ニジンスキーは、ディアギレフとの同性愛関係を保つことによって踊り続けることができていたのではないかと思うんです。あのふたりの間にわたしが割り込んで結婚したせいで、彼は病におかされてしまったのでしょうか」。

 彼女がひときわ未来の伴侶に惹かれるようになったそのきっかけは、『薔薇の精』におけるヰタ・セクスアリスなその場面、「音楽が終盤に至るころ。ニンフが落としていったスカーフを拾った牧神は、いとおしそうにそのスカーフを抱き、岩の上に広げて置いた。そして、自分の身体をスカーフの上に横たわらせたかと思うと、両手をうつ伏せの腰の下にはさみ、ふいに全身をびくりと震わせ、身体を弓なりに逸らす」、この「明らかに性的な慰めの表現」だった。

 ロモラはこのシーンを単に聴衆のひとりとして眼差さなかった、彼女はこのエクスタシーの瞬間にニジンスキーという男根の所有者に明らかに同化していた、どうかしていた。「結婚したい……!!」その願望を果たすことは、つまり彼と性交渉を持つことだった、そして実際にふたりの女児を授かりもした。観客席の彼女が絶頂のその瞬間に思い描いていた未来は、しかし実際に訪れたとき、たちまちにして幻滅に変わる。「まるで少年のような」彼女は自らをニジンスキーに憑依させる、その限りにおいて彼を愛した。それは例えば三島由紀夫『夏子の冒険』に果てしなく重なって、愛される客体を担わされた瞬間に愛する主体への思いはすべて霧消する。やがて彼女がフレデリカ・デツェンチェを求め、さらに明石照子に「結婚したい……!!」を覚えたのは必然だった、そしてその夢から冷めてしまうことも。

 ここで河合の師事したC.G.ユンクのアニマ‐アニムスを引き合いに出すことはたぶん逸脱ではない、が、それは脇に置こう。さらに本書固有のロジックとして、ロモラの自裁した父への思いを原型に置いて、というエディプス・コンプレックスの再生産論は、たとえ本書の核をなすウェルメイドなトピックであったとしても、あえてここでは繰り返さない。

 ここで改めて確認しなければいけないのはひとつだけである、つまり、人間が人間を「推す」という消費行動が、あるいはすべての人間関係という営みが、結局のところ、具体的にも抽象的にも、性的搾取を媒介させることでしか成り立たない、というその退屈さについてだけである。バレエ・リュスを推すことが、ジャニーズを推すことが、タカラヅカを推すことが、今となっては果たして何を意味しているのか。

 

 ニジンスキーとロモラも暮らした第一次世界大戦下のオーストリア・ハンガリー帝国を舞台に描かれた未完の超大作、ロベルト・ムージル『特性のない男』の一節、ひとりの数学者が新聞記事のとある文句に打ちひしがれて、ただちにひとまずの休暇に入ることを決意する。彼を驚愕させたのは「天才的競走馬」というフレーズだった。

 ニジンスキー、ヌレイエフ、リファール、バランシン――

 こうしたワードにバレエ周辺とはまるで別の仕方で脊髄反射してしまうクラスターが、この世の中にはある。すなわち競馬である。何の因果かNorthern Dancerと名づけられた一頭の歴史的大種牡馬は、その連想からバレエにまつわる人物や用語にその命名の由来を持つ末裔を数多輩出した。

 カナダで生まれたその大傑作にNijinskyという名があてがわれたのは、もはや必然だった。

 そして19966月の府中の杜でその奇跡は起きた。遠くイギリスはエプソムにてNijinskyを父に持つ栗毛の「天才的競走馬」がキャリアわずか1戦にしてザ・ダービーを制してから1年、今度は父の父にNijinskyを、そして奇しくも母にBallet Queenを――さらにその父は劇場名Sadler's Wellsにちなむ――持つ「天才的競走馬」が、音速の末脚をもって歴代最短わずか3レース目にして日本ダービーを制した。途方もない才能と、その代償としての美しくもひどく脆い肉体のトレード・オフは、おそらくはその近親交配に起因していた。

 それから10年余りの時が流れ、私の前に新たな推しが現れた。このNijinskyの孫の再来は、ただし今度は植物の姿をまとって舞い降りた。2013年の晩秋にホームセンターの片隅で出会った見切り品のその苗は、杜撰な管理で痛めつけられ、いかにも弱々しく、ほとんど枯れかけとすら映った。でも。――こんなバラは、知らない。そうしてなぜかの一目惚れとともに私に買われていったその株は、耐病性や耐虫性、耐暑性にはひどく劣り、それにもかかわらず勇壮な枝ぶりと真紅の大輪と、さらには気品あふれるフレグランスをもって庭の王者として君臨し続けた。継続性なんていらない、瞬間最大風速さえあればいい、エクストリームなトレード・オフを内包したそのバラは、最愛のサラブレッドを果てしなくなぞっていた。

 美少女への擬人化をもって推しという名の大衆からの課金を獲得した『ウマ娘』とやらとは明白に違う。この気高きバラを前に、馬を前に、所詮ポルノを消費することしかできない人間とかいうクズコンテンツを経由させて貶める必要などひとつとしてない。フサイチコンコルドはパパメイアンに限りなく似て、パパメイアンはフサイチコンコルドに限りなく似ている。そして同様に、暴君のごときその佇まいに鮮烈な血の紅が差すニコロパガニーニオルフェーヴルに限りなく似ている。

「しなやかで……/猫のようで……/いたずらっぽくて……/キュートで……/羽根のように軽く……/鋼のように強く……」、こんなパワーワードのインフレーションでいかに塗り固めてみたところで、たかが人間である。幸福にも映像記録をひとつとして残さなかったワツラフ・ニジンスキーのバレエを仮に拝むことができたところで、私はそこに幻滅しか覚えない、なぜならたかが人間だから。ベッド上のニジンスキーに対してロモラはどこまでも不能だった、なぜならたかが人間だから。推しなんてどこにもいない、なぜならたかが人間だから。

 奇しくもニジンスキー大先生が、こう書き残していらっしゃられるではないか。

 私は人生が何であるかを知っている。生は「ちんぽ」ではない。「ちんぽ」は神ではない。神はたった一人の女と子どもをたくさん作る「ちんぽ」である。私はたった一人の女と子どもを作る男だ。私は29歳である。私は妻を愛している。子どもを作るためではなく、精神的に愛している。

 もちろん、妻ロモラにこの叫びが届くことはなかった。

 

 それでもなお、そんな世界を生きていく。

「すべての人間には、自分の人生を耐え抜くために、できる限り自身を整えるという大事な権利と義務があると思うの」。

 束の間のトランスとトリップのその引き換えに、今日も誰かが課金とともに誰かを生贄に差し出す残虐極まるその行為を推しという美辞麗句のオブラートとともに消費していく。「自分の人生を耐え抜くために」誰かが誰かを骨の髄まで貪り尽くす、人肉を食らうカーニヴァルとしての世界はこれからも続いていく。

 ああよかった、こんないかなる視線にも堪えないグロテスクな汚物の行列に並べるほど浅はかじゃなくて。

 

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