なんでこうなったんだろう――
考えるまでもなかった。横田商事が悪辣な詐欺商法を働いていると知りながら、30万円の固定給と10パーセントの歩合に惹かれて入社してしまった自分が悪いのだ。
5カ月前、隠岐は新聞に挟まれていた社員募集の折り込み広告を見て応募することを決意した。妻子と借金を抱えた身には、他に選択肢はないように思えたからだ。
セールスマンとして採用され、厳しい研修の末に、あこぎとしか言いようのない勧誘方法のあれこれを身につけた。そして指示された老人や主婦の元へ向かい、他のセールスマン達と同様に、教えられた通りの方法で次々と契約を取っていった。善人を装って。親切心を装って。自分は人を欺しているのだと、常に怯えを抱きながら。……
バブル前夜――横田商事は主に独居老人を狙い、親切を装った強引なセールスで客に金の地金を購入する契約を結ばせた。しかし現物の金は客に渡さず、代わりに『純金ワールド契約証券』という紙切れのみを渡す。いわゆる現物まがい商法にして文字通りのペーパー商法だ。
被害者数3万人、被害総額2千億円に上る戦後最大の詐欺事件で、その悪質さは他に類を見ない。大勢の老人が老後の資金を欺し取られたが、その莫大な収益の行方は、野川会長殺害の背景も含め、今日に至るも未解明のままである。
マスコミのカメラの面前で会長が殺害される。そのセンセーションをもって悪辣極まる商法はようやく白日のもとにさらされた。社会的に糾弾が飛び交う中で、かつて属した社員たちは自らの履歴を隠して方々へと散っていった。
主人公、隠岐隆もまたそのひとり。辛うじて潜り込んだ零細文具メーカーで不遇をかこつ彼の前に、やはりかつて横田に身を置いていたというひとりの男が現れる。メフィストフェレスが耳元でささやく。
「取り返そうよ、ここらで、僕達の人生をさ」
新ビジネスのパートナーへと誘い込む男には効果覿面の切り札があった、つまり、断れば隠岐の過去をすべて周囲にばらす、と。そうとなれば必然、会社を追われることになろう、隠岐にはもはやついていくという以外の選択肢などなかった。
一定以上の年齢の読者ならば、横田商事が豊田商事をモチーフにしていることくらいは、誰しもがただちに了解する。原野商法、和牛商法、発展途上国投資詐欺――隠岐らが繰り出すスキームについて、各々の時代の報道を越えて、何かしらのドキュメンタリックな真相が新たに暴かれることもない。
経済小説において明白なモデルや時事トピックを持たない方がおそらくは珍しい。そこにヤクザなる機械仕掛けの神を絡める手法というのも、バイオレンス小説、犯罪小説としては至極ありふれたアプローチなのだろう。
わざわざネタバレ全開でそうした本筋を今さらながらにさらい直して、あれこれとこね回すことにさしたる意味があるとは思えない。どうせ行き着く先は、既視感全開のインフレーションを超えない。
だからここでは、本書でどうにも鼻について仕方のない、ストーリー・プロットの古臭さとは別種の頑迷固陋性について専ら展開することにする。
「思い出してみろよ、横田商事の光景を。テレフォン・レディーのおばちゃん達が、先を争って営業の電話をかけまくっていた。パートタイムのおばちゃん軍団こそが、言ってみれば横田商事の核心だった。おばちゃん達は自分が何をやってるか、完全に理解していた。僕達よりもずっとだ」……
テレフォン・レディーと呼ばれた主婦の集団。家庭を想う平凡なパートの中年女性こそ、横田商事で最も邪悪な衆生であった。
昭和の時代である、幹部にしてもほぼすべてが男ならば、営業にしてもほとんどが男、つまり詐欺によってもたらされた甘い汁は男どもが貪っていったに違いない。にもかかわらず、さしたる給与を受け取れていたはずもないコールセンターのスタッフ風情が「最も邪悪な衆生」と名指しされるのである、それはおそらくは単に彼女たちが女であるというだけで。
主人公がこのビジネスにのめり込んでいく過程も、単に口八丁手八丁のアドリブ芸で目の前の顧客を騙し抜く「舞台に立つことの快感」を知ってしまった、というだけで説明はされない。むしろ正当化にあたって彼にとって重要だったのは、何よりも家計の問題だった。妻とふたりの娘を養うためには、時にダーティーな手段に打って出てでも、金を稼ぎ出さねばならない。何も好き好んでこんな汚い仕事に手を染めているわけではない、横田への入社もその後の転職もすべては家族のために仕方なくやっているのだ、女どものためにやっているのだ、それが彼にとっての免罪符だった。言い換えれば、「最も邪悪な衆生」とはここでもまた、女に他ならない。
極めつけは、上田美由紀や木嶋佳苗あたりをサンプリングしただろう、ひとりの女性社員の存在である。
「34歳という年齢で特に美人というわけでもないのに、体だけは艶めかしい。密かに観察していると、男達の……見る目がやはりどことなく血走っているのが分かる。……
自身の〈女〉を露骨に使って男達を刺激し、焦らし、挑発している。空気がとげとげしくもなるはずだ」。
乱される男に罪はない、乱す女がすべて悪い。この磁場において、すべての主語はファム・ファタールに帰属する、かくして男たちは透明化され、クレンジングされていく。
蛇にそそのかされたイヴがアダムを誘惑さえしなければ、この神の似姿は永遠に無垢のまま、楽園に留まることができたのに。
人類史上最悪の詐欺師とはすなわち、イヴである、〈女〉である。
『創世記』以来の、この超古典的図式を今さら本書は踏襲する。
何もかも、〈女〉が悪い、〈女〉が憎い、レイプでさえも〈女〉の側にも落ち度がある、いや、〈女〉の身体にこそ落ち度がある。
マチズモが男々しくも訴えるこの八つ当たりはいみじくも、私たちが生きる現在進行形のこの世界にはびこるミソジニーと完全に同期化する。
その限りにおいて、なるほど確かに「詐欺とは世の中をぼんやりと映し出す曇った鏡だ」。