ガラスの天井

 

女の子は本当にピンクが好きなのか (河出文庫)

女の子は本当にピンクが好きなのか (河出文庫)

  • 作者:堀越英美
  • 発売日: 2019/10/05
  • メディア: 文庫
 

  玩具店の女児コーナーに足を踏み入れれば、ピンク、そして水色、ラベンダーというパステルカラーの大洪水だ。美容、おままごと、手芸、クッキング……と従来の女性役割を踏襲した玩具が多いことも、欧米の母親の悩みのタネになっている。あんなに抵抗して克服しつつあるはずの性別役割分担が復活するなんて、だ。とはいえ、「かわいい……」とうっとりする娘たちを前に、大人たちはなすすべもない。(中略)

 国を越えてこれほど多くの女児がピンク(やプリンセス、キラキラしたもの、妖精など)を好むのは、いったいどういうわけなのか。社会の影響? それとも女の子は生まれつきピンクが好きになるように脳が配線されている? 仮に生まれつきの性質なのだとしても、もやもやせずにはいられない。

 

 女児はどうやらピンクが好き、そんなことを生物学的に裏づけた研究がある。

 被験者のアカゲザルは、新生児のごく初期にのみ顔にピンク色を呈する。そこで成人のメスの前に、生後半年の幼児の顔をそれぞれピンク、異なる色、無着色に塗り分けて差し出す。「すると、育児歴・年齢にかかわらず、メスは一様にピンク色に塗られた幼児に好意を示したのだ」。

 しかし、本能云々に一見ベースを与えるかのようなこれらサンプルをいくら引いたところで、実際にはこのテキストの核心とはほぼ何らの脈絡をも持たない。

母性、エロ、幼さ、そして献身……。日本におけるピンクは意味が何重にも重なっている。一言でまとめると「客体であれ」という期待だ。

 畢竟、本書はこのテーゼに尽きる。すなわち、「客体」として規定される側の女性性、ピンクをめぐる葛藤である以上に、本書において真に問われなければならないのは、抑圧する主体としての男性性に他ならない。「女らしさ」のアイコンとしてのピンク、対して「男らしさ」を象徴する色となると答えに窮することだろう、あるはずがない、見る-見られる関係の非対称性の中で、眼差す主体は自らの色など決して顧みる必要がないのだから。

 逆説的にピンクを通じて体現される痛々しいまでの権威主義のマウント競争の中で、男たちはいったい何を獲得できただろう。先日、『正論』や『Will』への寄稿(奇行?)で知られる大学教授が下院議員A.オカシオ=コルテスの容姿を評して盛大に炎上した。「ピンク」が「ピンク」であることを疑う能力を持たない、自らと立場を入れ替えて考えてみる、というcommonsenseなきがゆえにこの荒唐無稽は引き起こされた。共通感覚を喪失した孤独な彼らにできることと言えば、己の偏狭な妄想を常識としてがなり立てることだけ。

 そんな退屈な「ダサピンク」を押しつけられる女性にとっても悲劇、そして同時に、そのフレームに自身もまた押し込まれていることにすら気づけない、あるいは気づいたところで脱出口を持てない男性にとっても悲劇、「主体」を解放しない限り、この悲劇はどこまでも続く。

「女が強く賢くあることは望ましくない。男を立てよ」というメッセージの裏には、「男は強くなって競争に勝ち、女を支配しなくてはいけない」という男の子に向けられたメッセージがある。男の子への呪いも解かなければ、女の子への呪いは再生産され続けるだろう。

 有り体に言えば、この結論自体には何ら新しい点はない。しかし、これは決して固定観念的なフェミニズム論に筆者が横着を決め込んだ末の記述ではない。原著出版2016年の幼きふたりの娘を抱える母の目線から見て、未だにこの程度のところで足踏みを繰り返さざるを得ない現状だからこそ、この指摘は生々しくて痛いのだ。 

 

 ニット、スニーカー、下着、靴下……と一時期、身にまとうものがやたらとピンクがかっていた頃がある。花壇のバラも気づけばピンクだらけだし、それらを写真に収めるデジカメもピンク、というか今、この文章をタイプしているPCすらもピンク。

 別に先進的な男性アピールをしたいわけではない。これらのセレクトの理由は極めてシンプルで、そのほとんどが売れ残りのバーゲン品だったからというに過ぎない。

「ダサピンク」に対して「イケピンクとは、客体としての女性性を象徴するピンクではなく、主体的に選び取られたピンクである。だから、イケピンクは一人ひとり違うのだ」。

 市場を見るに、街並みを見るに、「イケピンク」への道は遠のいてすらいる。