こんにちは赤ちゃん

 

 僕はテレビをみる人達に知って貰いたい

 芸能史の暗い影を

 それを求めた観客の貧しさを

 健全娯楽をつくる前に

 娯楽というものの

 淫靡な素姓を見極めなければ

 無意味であることを。

 日本の芸の発生の後ろめたさを大切にしたい

 そして差別に耐え 権威にへつらいながら

 受けついできた芸の伝統を

 どういう形で僕達が受け継ぐかを

 考えなければならないと思う。

 ……

 二十歳の時にテレビ放送が始まり

 僕はそこで働くようになった。

 テレビは飢えた豚のように

 あらゆる文化・芸能を

 その胃袋の中におさめようとする。

 その現場から

 芸の伝統を解きほぐし

 一九六九年 昭和四十四年の時点で

 テレビが芸能史をどのように受けとめたか

 この本はその体験的なエッセイであり

 テレビスタジオからの報告でもある。

 

 うろ覚えの記憶をたどりながら書く。

 かれこれ20年ほど前になるのだろうか、永六輔がゲストに招かれたラジオ番組での一コマ、その中で徳川夢声と初対面を果たした際のエピソードが明かされる。徳川の日記は永をこう評していたという、「生意気」、「不愉快」と。それを受けてホストの伊集院光が継いだ。ライブドアによるニッポン放送買収が世間を賑わせていたその時代、徳川にしてみれば永の台頭というのは当時でいうIT長者のそれのようなもので、既存のメディアや芸能のルール・ブレイカーであるこの若者に対して反発を抱いたのにも、現代の世間と同様の感情があったのではないか、と。

 放送作家なんてことばがおそらくは誕生してすらいなかっただろう時代に、中学生にして既に原稿のようなものを送り込んで事実上構成にあたる仕事を担っていたというこの神童が、メディアの特性や時代の潮流に誰よりも敏感だったのは、ほとんど必然だった。

 

 本書の中で、その徳川について永は「ラジオまでの人であって決してテレビには向いてはいない」と評する。もっとも、これはあくまで適性の違いを論じたものに過ぎない。このときに永が比較対象として提示するのは淀川長治である。

マリリン・モンロー、よかったですね、よかったですね、本当によかったですね、よかったですね、とてもよかったですね」。

 単にこれを文字として引用しているだけだといかにも単調にして冗長で、むしろ淀川をあてこすっているようにしか思えないだろう、確かに「ここでは表現の技術が感情の積み重ねに終始して、名言を工夫するとか、言いまわしをするとかいったことはまるで無視されている」、しかし、映像メディアにおいてはこれこそが求められているものだ、と永は讃える。

夢声の豊かな言葉による表現。/淀川の豊かな表情による表現。/夢声の音程のめりはりの強さ。/淀川の音程のなめらかな変化。/夢声の聞かせようとする姿勢。/淀川の聞いて下さいという姿勢」。

 メディアがメッセージを規定する、こうして昔日の「話芸の神様」は歴史の中に埋もれていった。

 

 もっとも本書は、失われていったものをただ数え続けるような、ノスタルジーに終始するものでは決してない。それどころか、失われるには失われるだけの理由がある、そんな憤怒さえも時に滲ませずにはいない。

 例えば槍玉に上がるのは文楽だ。嘘か真か、「不入りの方がいいのです。これが満員になったりすると保護されなくなる」との関係者証言を紹介しつつ、永はばっさり切り捨てる。

「この文楽の人形の方を人形劇として考えると、人形そのものは『ひょっこりひょうたん島』や、ケロヨンのように充分に大衆芸能の一端をになっている。

 かつて文楽が『蝶々夫人』のような新作をやって批判され、今はそんな雰囲気がまるでないが、あの時、何故、子供を喜ばすことを考えなかったのかと思う。……人形浄瑠璃の中には子供にとって面白い部分がいくらでもある。伝統芸能の保存ということを叫びながら、子供を無視するのが、どうしてもわからない」。

 アップデートと現代風にまとめてしまうのはあまりに軽薄なのかもしれない、しかし、今を生きる目の前の人間のために芸を志向しろというその檄にどうして反駁できようか。

 神とあがめられる先人のコピー・アンド・ペーストに終始するだけの講談を閑散とした客席で眺めながら、永は思わず「背筋が寒くなる」。なぜなら、「そこにあるのは修行の果ての話芸の形骸」しかないから。「その古めかしさに『いいな』と思っても、『うまい』と思える感動が無いのだ」。ハコも違う、音響も違う、そしてなにより時代が違う、そんな変化に背を向けて、「『どうもひどい世の中だ』という諦め」とともに、分からない大衆の方が悪いのだ、と開き直っているように思えてならない、これの何が「生きている芸」なのか、と。

 だからこそ、永はそこに逆説的に命脈を見る、今こそが「師匠と呼ばせずに先生と呼ばせたような権威主義の伝統をぬぐい去って出直す絶好のチャンス」ではないか、と。

 

 民衆の、民衆による、民衆のための芸能。

 このテキストは表題を裏切るように、むしろ誰もまだ見たことのない芸能の未来を説いてやまない。本書が一見歴史のかたちをとるのは、それは各種芸能の起源が、権威主義も何もなく、単に民衆が自分自身を楽しませるためにはじまったのではなかったのか、というプリミティヴな直観に訴えるためだった。「生きている芸」というフィクションを正当化するためのギミック、それが1969年の永にとっての「芸能史」だった。

 遡ること200年前に同じようなことを想像した者があった。

 王政末期のフランスで、アカデミーが「人間における不平等は果たして何に由来するのか」という懸賞論文のテーマを発表する。そうして寄稿された原稿の一本は、「自然状態」というフィクションを構築するところから論考を立ち上げる。人類史のどの段階においてもおそらくそんなものはなかっただろうことを書き手自身が知りながら、それでもなお彼は筆を進めた、それはひとえに不平等に閉塞した現状よりもまともな何かを求めて、「生きている」世界を求めて。まだ見ぬ世界を裏打ちするおとぎ話として、彼は意図的に紙の上に帰るべき「自然状態」を作り上げてみせた。

 かくして1755年に『人間不平等起源論』は発表される。こののち、『エミール』や『社会契約論』の成功をもってメディアの寵児へと駆け上がる近代市民革命前夜のトリックスター、フランス版永六輔プロトタイプ、その名をジャン=ジャック・ルソーという。

 

上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」などを編み出した稀代の名作詞家は、1968年の紅白歌合戦のシーンとともに書き進められるこのテキストのフィナーレを、幻の光景とともに飾らずにはいられなかった。

 紅白歌合戦が僕達にとって本当の祭りになる為には、やっぱり、歌を歌手から取り戻すべきであろう。僕達が、観客がその年に流行した歌を合唱し、踊り、それを歌手が応援するようになったら素晴らしい。そして、そうなった時には本当に芸のある歌手だけが生き残るであろうし、そうした歌手なら客席を熱狂させることにもなるのである。

 人はそこに民主主義の賛歌を聴く、誰もまだ耳にしたことのない。

 

shutendaru.hatenablog.com

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