不思議の国ニッポン

 

 森鷗外1890年に『舞姫』を発表した。そこには煩悩にとらわれるあまり、心に渦巻く感情をうまく対処しきれない若者が主人公として起用されている。近代文学史において新たな扉を開いた記念すべき第一作、うじうじロマンチストヒーローの初登場である。

 それ以降、鷗外の跡を追うように、同世代の文豪たちもみんな、まごついたり、ビビったり、自らの気持ちをストレートに表現できなかったりする男性ばかりを描き始めた。しかも彼らの想像から生まれた、自己中すぎる「ダメ男」のそばには、優しく包み込んでくれる従順な淑女が勢ぞろい。たとえ明治時代でも、そんな都合のいい女なんてありはしない。フィクションと現実の境界性が曖昧な作品が多いだけに、よりいっそう疑わしい。……

 なぜ近現代になって文豪たちの恋愛偏差値がガタ落ちしてしまったのだろうか。

 勝手な憶測ながら、その転機は明治時代に訪れたものだと私は睨んでいる。……

 旧来の身分制度が廃止され、国民という概念が誕生する画期的な明治時代。多くの若者が文学とは何ぞや、日本語でどのような文学が書けるかなどについて煩悶しはじめた頃でもある。同じ若者たちはまた、西洋から輸入されたロマン主義文学を夢見て、「愛」は悩むものだと初めて知ることになった。彼らはいわゆる「ロマンチック・ラブ」に騙されたわけだ。

 

 一八九〇年、その一冊がすべてを変えた。

 そのテキストを森鷗外舞姫』という。

 明治政府が国家の命運を託して送り出したウルトラ・スーパー・トップ・プロスペクトの手による半自伝的なこの小説の中で、主人公は「何一つ決断しない」。なんとなく官僚機構の期待を背負う羽目になり、なんとなくエリスと恋に落ち、なんとなくエリスが狂い、なんとなく相沢や大臣の導きのまま妊娠した彼女を捨てて国に帰り、そしてなんとなく「我が脳裏に一点の彼を恨むこころ今日までも残れりけり」と船中にて独りごちる。鷗外はここに、外濠を固められていかなる自由の余地もない、宙吊りの自画像を提示する。神が失われたその後で、封建制度が崩れ落ちたその後で、近代自我に基づいて各々の行為主体が理念のもとに集って一体のリヴァイアサンを形作る、そうした国家モデルを吸収すべく、個人モデルを獲得すべく、日出ずる国より送り出されたエリート中のエリートが、くすぶる何かを内包しつつも、私には自我なんてものはありません、と早々に白旗をあげてしまったのである。「変わりゆく日本という夢を見つつも、個々人の自我の目覚めを封じ込めようとする強力な国家に潰されていった男たち」というこのモデルが、ところが日本文学いや日本国家そのものを以後も強力に呪縛し続ける。

 彼らにとって「国家」とは抑圧主体という以外の現れ方をしない。「自我」を可能にするための共同体としての「国家」を彼らは持たない。パノプティコンへの畏れを内面化させた彼らは、その監視システムの下で能動的に「個々人の自我の目覚めを封じ込めようとする」。誰が強いているわけでもない、自らが自らに強いているにすぎない。彼らにはその牢獄の中で悶え苦しむ自我の葛藤を小説化することしかできない。いみじくもこの100年前の碇シンジ-1.0が「何一つ決断しな」かったように、彼らが私小説を選び取ったわけではない、単にcommonなき彼らが他なる選択肢を自らに用意できなかった帰結にすぎない。

 ありやなしやも知れぬ塔の上からの視線に勝手に震えてる「縛られる日本人」(メアリー・C・ブリントン)に女が書けるはずがない、なぜなら彼らにはそもそも「変わりゆく日本」をともに思い描く他者がいないのだから。

 #metooできない、#wetooできない、そんな私の個人主義をエモったらしくナイーヴにつぶやくことしかできない。

 

「立派な芸術的作品ほど、時代が経てば、だんだん通俗化して行くのだと思うのですね」。

 菊池寛真珠夫人』のこのフレーズを、『舞姫』は五十余年の後に現実化させる。

「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」する「神聖ニシテ侵スベカラ」ざるはずのその男は、GHQを前にしてさえ自らが決定の主体たり得なかったことを、一切が軍部の暴走に帰することを、「何一つ決断しない」存在でしかあれなかったことをいけしゃあしゃあと開陳して、見事に戦後を生き延びてあまつさえ天寿を全うしてみせた。その瞬間、彼は紛れもなく「象徴」へとメタモルフォーゼした、すなわち「変わりゆく日本という夢を見つつも、個々人の自我の目覚めを封じ込めようとする強力な国家に潰されていった男たち」の「象徴」へと。

 

 主体なき前近代的存在としての日本人と日本文学の関係性については、本書から遡ることはるか半世紀前に、既に江藤淳が『成熟と喪失』の中で指摘していた。というよりは、小島信夫抱擁家族』(1965年)を発見した段階でこの論の成功はほとんど担保されていた。

 この小説のあらすじといえば、アメリカ兵に寝取られた夫が、反発を覚えるどころか、欧米化した妻にひたすらの屈従を余儀なくされていくという、つまりはNTRもの。もちろん、家族というミクロな単位はあくまで寓意に過ぎず、自我なき日本が強固な従属関係をむしろ主体的に取り込んでいくまでの軌跡がここに綴られる。ここでもまた、小島には夫は書けても、妻は書けない。それは単に、機械仕掛けの彼女が記号的存在であるがゆえに内面を伴わない結果のできごとではない。「ダメ男」が自らの自らに対する自らのための屈従を私小説化させることしかできない、そんな日本文学史の、いや日本近代史の反映からもたらされる必然である。

 鷗外の1890年から変わらない。小島の1965年から変わらない。

 変わらない、変われない。

 それこそがまさに、『舞姫』が「何一つ決断しない」すべて日本人にとっての国民文学として千代に八千代に君臨し続ける、その明証である。

 

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