模倣の法則

  

 

 

 文学的描写、いいかえれば「模倣」による現実の解釈という、この書物の主題に、筆者が関心を寄せてからすでに久しい。筆者の出発点は、『国家』第十巻におけるプラトンの、模倣を真理の三位あとに位置づけようとする議論、ならびに、喜劇において真の現実の表現を要請するダンテの主張であった。人間的事象を解釈する方法が、ヨーロッパ諸国の文学の中でさまざまに移り変るのを観察しながら、筆者の関心は次第にせばまり、局限化し、そこから生じてきた若干の主導的な観念を追究してみようというのが筆者の意図となった。

 それらの観念の第一のものは、古典古代にはじまり、後にはすべての古典主義運動によって受け入れられた、文学的描写の様式水準の高低に関する教説とかかわるものである。そこで筆者に明らかになったのは、十九世紀初頭にフランスで成立した近代リアリズムが、美的現象として、この教説からの完全な訣別に到達したということだった。

 

 レトロゲームに改めて触れた際にまず気づくことといえば、グラフィックの粗さや情報量の少なさ……例えばテレビゲームのハードの歴史叙述が、かつてはできなかったこと、欠けていたものを数え上げていく作業に終始せざるを得ないことにどこか似通う。

 例えば「ホメーロスの詩作品は緊迫感の要素にきわめて乏しいのである。詩の文体すべてにわたっていかなる部分も、読者あるいは聴衆の息をとめるようには仕組まれていない」し、アンミアヌス・マルケリヌスの主題は、「近代の歴史家だったら、いかにして民衆がこのような堕落した状態に陥るに至ったかという問題を提起して評論するだろうし、……少なくとも、そのことに全く触れないですますということはありえない」。荘重体に固有の「弛緩の跡の全くない気品のこもった叙述」の反面、「実人生の幅や深さを描き出すには適さない。またもともとそのような意図も含んでいない」。なるほど「シェイクスピアの道徳的・思想的世界は……古代のそれに比べるとはるかに動きに富み、多層的で……人間が動いたり事件が起きたりするその根柢が、はるかに不安定で、内部からの動きによってゆり動かされているようにみえる」。とはいえ、「彼が悲劇的なものとして扱うのは王侯貴族、政治家将軍、古代の英雄たちだけである。……シェイクスピアの世界精神は、いかなる意味でも民衆の精神ではないのであ」る。『赤と黒』が変えたもの、つまりそれ以前は「いかなる文学作品においても……一人の下層階級出身の男をきわめて具体的な歴史的現実の中に置き、その中で彼の悲劇的な生涯(つまりこの小説ではジュリアン・ソレルの生涯)を展開していくという手法はなかった」。そして至るべくしてエミール・ゾラ自然主義を迎え、ただし、筆者の指し示す終着点は、ある面では身も蓋もない。「映画で達成されているような空間と時間の集中――たとえば、数秒間、数箇の画面で、広く分散した人々の群れや、大都市、軍隊、戦争、全国土の状況を写し出すような――は、とうてい、話し言葉あるいは書き言葉の領域ではありえない。……小説は、同時に、映画出現のおかげで、その道具、言語によって許されている空間と時間の限界を、以前にも増して明らかに認識せざるをえなくなった」。

 

 歴史の鳥瞰図からのないもの探しに血道を上げるだけならば、そんな不毛にさしたる読み応えなどあろうはずもない。今日においてすらなおも有用と見える文学史案内に資するだろう、その精緻な分析力もさることながら、本書において最も強調されねばならないのは、硬質な文体においてすらほとばしるその熱量に他ならない。

 その絶頂は『エセー』において極められる。

内容が思想的、いや厳密に論理的なものであるにもかかわらず、またこれが自己省察という問題を深めようという精密な思考作業であるにもかかわらず、表現しようとする意志がいかにも活溌なので、文体は理論的な論文という枠を破ってしまっている。モンテーニュに親しんだことのあるものは誰でも筆者と同じように次のような経験をしているにちがいないと、筆者は臆測する。しばらくの間モンテーニュを読んで彼のやり方になじんでからは、彼が話している声が聞こえ、彼の身振りが見えるような気がする。こういう経験は、彼より以前の理論的な著作家たちを読んでもめったに味わえない経験である。

 そして、『ミメーシス』の、とりわけこの章において、読者は全く同じこの経験を模倣するだろう。まさしくアウエルバッハその人の「話している声が聞こえ、彼の身振りが見えるような気がする」。

 

 千九四五年頃、ベルリンから五百里離れたところで、この評論は書かれた。したがって二〇二〇年の事態を諷するものは何もない。

 時代を越えて、言語を越えて、イスタンブールにさまよえるユダヤ人がヨーロッパの文学を渉猟するこの試論の、そもそもの真意が説かれる。

外面的な事象の進行の断片化と、意識の反映、時間の重層性をもたらした、複雑な分解プロセスは、きわめて単純な解答をもとめているようにみえる。それはおそらくあまりにも単純にすぎて、現代という時代を、その危険や破局にもかかわらず、生の複雑な豊かさや、それがもたらす比類ない歴史的なシチュエーションのために讃嘆し愛する人々を満足させはしないであろう。しかしそのような人々の数は少ない。そしておそらく彼らとても、迫りつつある一様化と単純化については、そのほんの前ぶれ以上のものを知ることはないであろう。

「不要不急」が全体主義と共振する。「一様化と単純化」への邁進をやめない、模倣を重ねる歴史の中で、炭鉱のカナリアを引き受ける。

 文学が、文化が、必要ない、わけがない。