真実の口

 

 ふつう、プロレタリア文学を読む、ということは、真摯な態度で社会の裏面に追いやられた人々の暮らしを偲び、万人が自由と幸福に至る道を一緒に模索する心がまえで、聖典を拝するがごとくに作品に接することを意味する。……

 しかし、プロレタリア文学の崇高な目的に照らしただけの読書では、逆に見えてこないような要素が併存していることも、また事実だと思う。小説はやはり、その目的や動機や理念がすべてではなくして、小説内で読者にバーチャルな実体験を味わわせるスリリングな装置、という側面をもあわせもつ。

 そうでなければ、現代のようにプロレタリア文学の目的どころか、プロレタリア文学の担い手と読み手自体も消滅してしまった時代にあっては、この分野が存続する理由をみつけられなくなる。つまり、崇高な目的だの思潮だのメッセージだのを除外したのちにも、裸のプロレタリア文学は単純に「おもしろい物語」としての価値をさいはっけんされなければならない。

 そのことを実証するのに、現代はとてもよい時代である。プロレタリア文学を単に物語として読むしか方法のない時代だからである。

 

 むかしむかしあるところでプロレタリア文学なるものが読まれた時代がありましたとさ、というおとぎ話を切り出すとなれば、必ずやその筆頭格として挙げるべき作品が小林多喜二蟹工船』であることに異論の余地はなかろう。特高の拷問による非業の最期とともに、今なおその名は広く語り継がれる。「おい地獄さ行ぐんだで!」との書き出しとともに、小林はおそらくは「知的な、あるいは思想的な労働運動を鼓舞する」ことを意図して筆を走らせた、はずだった。貧民窟から十把一絡げに連れ出され船に積まれた素人漁夫たちをめぐって描き出されるこの地獄絵図は必ずや革命へと人々を駆り立てずにはいない、はずだった。

 しかし荒俣曰く、観察者の眼差しによって綴られるこの小説は、「労働者を救う側の論理ではなく、労働者をいたぶる側の方法に基づいて書かれている。労働者をいかに苦しめるか。その視点を徹底して貫いているからこそ、『蟹工船』をスプラッターホラーとして読むことのほうがむしろ自然に思えてくるのだ」。

 恥ずかしながら本書を受けてはじめて『蟹工船』を読み、序盤早々にしてなるほど度肝を抜かれる。漁夫のひとりは元坑夫、夕張でガス爆発に巻き込まれかけて山を下りる。その過去をめぐるトラウマ描写が鬼気迫る。

 トロッコを一杯石炭を積んで、他の人の受持場まで押して行った時だった。彼は百のマグネシウムを瞬間眼の前でたかれたと思った。それと、そして1/500秒もちがわず、自分の身体が紙ッ片のように何処かへ飛び上ったと思った。……彼はその時壁の後から、助ければ助けることの出来る炭坑夫の、一度聞いたら心に縫い込まれでもするように、決して忘れることの出来ない、救いを求める声を、「ハッキリ」聞いた。――彼は急に立ち上がると、気が狂ったように、

「駄目だ、駄目だ!」と皆の中に飛びこんで、叫びだした、……

 彼は何を思ったのか、手を振ったり、わめいたりして、無茶苦茶に坑道を走り出した。何度ものめったり、坑木に額を打ちつけた。全身ドロと血まみれになった。途中、トロッコの枕木につまずいて、巴投げにでもされたように、レールの上にたたきつけられて、又気を失ってしまった。

 青ざめた顔、焦点の合わぬ瞳、流血する額、よろめき歩き、やがて突っ伏す、この見事な錯乱描写は、しかし脳内で映像化するとき、まるでメンタルをハックされたゾンビ・ホラーのワン・シーンとしかむしろ思えなくなってくる。

 荒俣が『蟹工船』の主題として指摘することには、この時代背景に基づく特異性として「1929年時点の破壊性が『疲れ切る』という単語に集約されていた」。労働により極限の消耗を余儀なくされてそれでもなお彼らは死ぬことができない、許されない、「疲れ切る」というキーワードが脱臼した今日の読者の目には、労働者諸氏が死にたくても死ねないゾンビそのものとして把握されてしまうのもむべなるかな、なのである。

 

 あるいは平林たい子にとってプロレタリア文学とは、「強くなるためにデリカシーを捨て」ることだった。彼女は「ダイレクトなことばで、排尿も性交も出産も、いっしょくたに物語ってしまう」。そうして若き日の荒俣は、「貧しい人々の生活を描く小説作品を手にするたびに、低俗なセックス小説をそこに読もうとする自分を発見してしまうようになった」。

 

 現代人は、こうした生々しいムーヴメントに改めて自然主義というフォルダーを与えることもできるかもしれない。しかし今なお歴史の一ページとして閑却されるプロレタリア文学というくくりは、どうにも奇妙な矛盾をはらまずにはいない。というのも、「運動」を可能にするほどに広く読まれるというこの現象そのものが、自由主義経済を前提にしているのだから。仮にそのような販売実績を達成したとき、その作品は晴れてブルジョワ文学という忌み嫌うべき蔑称を与えられざるを得ない。さりとて眼に触れることすらない商品からはいかなる共感も生み出されようがない。

 市場のプレイヤーの競争に委ねることが、少なくともいかなる計画経済や配給制度にも勝って早い安いうまいを実現させてしまうことに限りなく似て、プロレタリア文学という呼称そのものが予めの敗北を織り込まれているカテゴリーなのかもしれない。

 

 そしてたとえ、ホラーとして、ポルノとして、現代に改めて発展的解消され再解釈されたところで、何が起きることもない。

 例えばかの映画『ローマの休日』の脚本を手がけたのは、ダルトン・トランボだった。もっとも公開当時、ハリウッド・テンのひとりとして赤狩りの糾弾を受け干されていた彼の名が作品にクレジットされることはなかった。抑圧された王女のお忍びの恋というプロットに脚本家の苦境が投影されていないはずがない、今となってはストーリーの寓意は明らかである。

 マッカーシズム陰謀論によって蝕まれて自壊していくいくそのさまを仮託した、冷戦末期の『遊星からの物体X』をそう読み解くことに何の不自然があろうか。

 世が世ならあるいはプロレタリア映画と呼ばれたかもしれないこれらは、恋愛ものとして、SFものとして、いずれもが累計数億人に鑑賞されただろう不滅のベストセラーである。そしてもちろん、その隠されたメッセージが同時代の大衆によって読み解かれることもなければ、ましてや「運動」を誘うこともかなわなかった。できたことといえばせいぜいが、オードリー・ヘプバーンラクシャリーのアイコンに仕立て、スペイン広場や真実の口を観光名所としてブランディングすることくらいだった。

 万物は消費の言語にのみ変換されて解体される、もとより世界に意味なんてない。

 

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