モーリスは学校でふたつの夢を見ていた。それで彼という人間が理解できるだろう。
最初の夢のなかで、モーリスはひどく腹を立てていた。正体不明の相手とラグビーをしていて、そいつが憎らしくてたまらない。変われと念じると、相手はあの庭師のジョージに変わった。だが注意していないと、また正体不明のやつが現れる。ジョージはフィールドをモーリスのほうに駆けてきた。裸で薪の山の上を飛び越えて。「今度ジョージが変なやつに変わったら、頭がおかしくなる」とモーリスは言う。ところが、タックルをした瞬間にそうなって、すさまじい失意とともに目が覚める。モーリスはこの夢をデューシー先生の説教と結びつけて考えず、まして二番目の夢と関連させたりはしなかった。が、自分は病気になるのだと思い、のちには、これは何かに対する罪だと考えた。
二番目の夢はもっと伝えるのが難しい。何も起きないのだ。顔もほとんど見えないし、声もほとんど聞こえない。その声が、「あれがおまえの友だちだ」と告げる。それで終わり、モーリスは美しさに満たされ、やさしさを教えられる。この友だちのためなら死んでもいい、この友だちが自分のために死ぬことも受け入れられる、と思う。互いのためにどんな犠牲も厭わない。まわりの世界はないに等しく、死も、地図上の距離も、不機嫌も、ふたりの仲を引き裂くことはできない。“これがぼくの友だち”だからだ。
1914年、つまり英国では同性愛が犯罪と見なされ、治療の対象とされていた時代に、それを主題とした小説を秘かに綴る。公表には筆者の死を待たねばならなかった。
生々しい性描写が見られるわけでもない。BLのような萌えファンタジーに振り切るでもない。当時においてははなはだスキャンダラスには違いないが、今日の水準からすればいかにも刺激に乏しい。時代の推移によりある種の歴史的史料として読み解くことを余儀なくされたイギリス版『ヰタ・セクスアリス』かと思いつつも、展開につれて認識の修正を強いられる。
つまり、鴎外は鴎外でも、これは『舞姫』に他ならない。
かつてモーリスこと豊太郎を覚醒させたクライヴはいつしか相沢へと姿を変える。主人公の前に横たわるのは、肉体を交えた身分違いの恋の葛藤。同性愛はいつしか二次的な要素へと解消される。階級、地位の利益の保持か、あくまで己の激情に従うか。同性愛はそれ自体の狂おしさを問う前に、彼に経済的、社会的成功を担保するだろう旧来の価値観への服従を証明するための踏み絵へとその意味合いを変える。
「何かすれば、ひどい目に遭う。何もしなければ、それはそれでひどい目に遭う――」。
この独白で誰しもが瞬時に英国文学史の系譜、to be, or not to beへと誘われる。
そして、ここに至ってモーリスと豊太郎は袂を分かつ。この小説の行方についてはあえて触れない。対して鴎外の分身はどこまで行っても「あいまいな日本の私」でしかあれない、相沢に導かれるまま、自らthe questionへと応答する資格を持てない、その宙吊り性を『舞姫』は謳う。
ハムレットにこの問いを突きつけたオフィーリアは麗しくも狂わしくも彼方へと疾駆して、そして彼はひとりになった。この輝きを前にして何ができるだろう、およそ主人公というものは、板挟みに苛まれる狂言回しでしかあれない。