檸檬

 

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

  • 作者:村上 龍
  • 発売日: 2009/07/15
  • メディア: 文庫
 

 女は赤ん坊の腹を押しそのすぐ下の性器を口に含んだ。いつも吸っているアメリカ製の薄荷入り煙草より細くて生魚の味がした。泣き出さないかどうか見ていたが、手足を動かす気配すらないので赤ん坊の顔に貼り付けていたビニールを剥がした。段ボール箱の底にタオルを二枚重ねて敷き、赤ん坊をその中に入れてガムテープを巻き、紐で結んだ。表と横に太い字ででたらめの住所と名前を書いた。化粧の続きを済ませ水玉模様のワンピースに足を通したが、また張っている乳房が痛みだし立ったまま右手で揉み解した。絨毯に垂れた白濁を拭かずにサンダルをつっかけ、赤ん坊の入った段ボール箱を抱えて外に出た。タクシーを拾う時、女はもう少しで完成するレース編みのテーブルクロスのことを思い出して、出来上がったらその上にゼラニウムの鉢を置こうと決めた。

 ペニスを咥えるべき別段の理由があるわけでもない。愛用の煙草が薄荷のフレーバーを帯びる必然もない。ゼラニウムの鉢植えがこの後の展開に対して何かしらの示唆を持つこともない。誰が何を好んで食べたとして、何の象徴性やアトリビュートが結びつけられることもない。書き出しに限らない、この作品には意味がない。

 

 意味はない、ただし、強度がある。いちいちが上滑りを重ねていくアイテムや出来事には、ただし、臭いがある、音がある、そして何より色がある。活字のモノトーンから極彩色が浮き上がり、何もかもが誇張されインフレに麻痺した世界を飾る。

 でたらめにページをめくってみる。

 ベッドの脇に置いてある冷蔵庫から、野菜ジュースとマンゴージュース、乳酸飲料と炭酸水を取り出して並べた。鏡台に手を伸ばして電子血圧計と体温計を取り、慎重に測定した。体温は正常、血圧はやや低目だったので、床の上で十分間ヨガをやった後マンゴーと野菜のジュースを飲み干した。残りの飲料は冷蔵庫に仕舞った。煙草に火を付けると、野菜の酸味とマンゴーの甘さに痺れていた口の中を煙が回り、ジュースと薄荷入りのタバコが混じり合った味は世界最低だ、と思った。

 ハシは陽向に転がった。ズボンのポケットから小さな瓶がキラキラ光りながら屋上を転がった。ハシは追いかけた。屋上の端でやっと追いつき蓋を開けた。十三本のガラスの塔が今にも倒れてきそうだった。視界が歪み、ハシはどこかへ帰りたいと思った。どこなのかわからないが帰りたいと思った。睡眠薬を三錠手の平に乗せた。噛み砕いた瞬間に吐気が起こった。熱いコンクリートに黄色い汁を吐いた。Dと水着の男女がこちらを見ているのがわかった。黒人女はエレベーターの方へ歩いていく。ショートパンツに包まれた硬そうな尻が揺れる。黒人女は影の中に見えなくなった。あいつ本当に狂っとるな、Dの声が聞こえる。僕は狂ってなんかいない。錠剤を噛み砕く。白く濁った唾液を飲み込む。僕は狂っていない、みんなから嫌われて悲しいだけだ。

 色は変わる、ただしそれは予め設定された視覚機能や処理能力の範疇で。つまり、何も変わらない、変わりようがない。どこを開いても、何が変わることもない。「そうだ、何一つ変わっていない」。意味を志向したモダンの果てに広がっていたのは、変わりようもない世界。強度と強度と、あと強度、身体性の牢獄に刹那という名の粗製乱造品が投げ込まれる。

「おしゃれしなきゃだめよ、おしゃれは世界で一番空しい遊びなんだから、だから楽しいのよ、洋服や化粧は何のためにあるか知ってる? 脱がされて裸にされるためにあるのよ、見る人にね自分のあそこを想像させるためにあるの、裸にされてぶたれて顔に水をかけられて犬みたいに這わされてしまうと、全てゼロ、だからいいのよ」。

「脱がされて裸に」なれば「全てゼロ」、うん、知ってた、だからつまらない。ゼロに何をかけてもゼロ、対処法は二つだけ、はじめから何もかけないか、その事実をフェイクするか。直視に堪えない、だから服を着せる、メイクで色をまとわせる、どのみちマネキンに勝てるはずなどないのに。何もかもが分かり切っている、だからよくない、つまらない。

 ポストモダンに許されたのは、戯れそのものを自己目的化することだけ。だからしゃらくさい。だから吹き飛ばしたくなる。

 

自閉症には、“豊かな自閉”と“貧しい自閉”の二種類があって、外界と切り離された患者の精神状態が空っぽの場合、“貧しい”、豊かな精神世界がある場合“豊かな自閉”とこう呼ぶのです。この溝内橋男はもちろん豊かな自閉です、このような想像力に満ちた作品を造るのですから。次に、関口菊之の場合ですが、この子は静止恐怖を訴えて急激な空間移動を欲しているにもかかわらず、それは外界への積極的な関与とはなっていません、むしろそれは急激な運動によって自分の中へ入っていく試みだと思います、何者かが自分のすぐ傍で轟音と共に飛び立とうとしているという彼の強迫観念は、実は自分を恐れているのです。溝内橋男を箱庭作りに熱中させているものと関口菊之が恐れているものは同じものです、それは何だと思いますか? エネルギーです。

 箱庭に卓越した幼児は長じて「新しい歌」の世界、つまりこの現実ならざる想像の中に別の世界を切り開くことに「エネルギー」を変換する。対して“貧しい自閉”しか持てなかった幼児は、メンターの声に導かれるまま、その天稟としての肉体を以て「ダチュラ」を貫徹する。

 

 そして事実は、「そうだ、何一つ変わっていない」。