バクオン。

 

 平成十四年六月十八日、ナオズミ[山本直純]は突然、帰らぬ人となってしまった。

 われわれ二人は大学では作曲科と打楽器科だったが、なんとか指揮者になりたかった。学生時代は二十四時間一緒だったといってもよかった。ぼくはナオズミの才能のすごさには、まったく太刀打ちできず、とにかく彼に追いつこう、というのだけがぼくの学生生活だった。

「大きいことはいいことだ」のコマーシャルの大ヒットのころから、指揮者としての彼は、大衆に愛される音楽に邁進していったようである。映画の「寅さんシリーズ」のテーマを作曲したり、テレビ番組にも出演していたから、彼の追悼番組ではそんな紹介や、当時の番組の映像が何度も放映された。

 どれも確かにナオズミだった。でも、それは一面でしかない。ぼくは、この本を通してナオズミの音楽家としての本質、彼の指揮法への真剣な探求心を、今の人たちにも知ってもらいたいと考えたのだった。

 

 戦後の焼け跡にブラザーフッドの花が咲く。

 今となっては食傷気味ですらある典型バディもの、ところが原著はなんと1987年、そのプロトタイプとしての先進性に思わず舌を巻く。

 

 ある演奏会を終えての打ち上げの後、すっかり疲れ果てた「ぼく」とナオズミは友人宅にて浅い眠りに落ちて覚め、猛烈な空腹感に襲われる。「ぼく」の財布の有り金はわずかに30円、交通費を残すために20円の盛りそばで我慢する。対してナオズミはといえば、何かしらの副業で稼いだ金に飽かせて見せつけるように寿司を食らう。

 いざ帰路に就こうと思い、はたと気づく。電車賃は20円、僕の手許の残金は10円。

 ナオズミに融通を頼むも、けんもほろろに断られる。なぜならば、ふたりが揃って師と仰ぐ人物にこう言い含められていたから。

「良い友だち同士だからこそ、お金の貸し借りはやめなさい。きみたちを見ていると、そこんとこがメチャクチャだと思うのよ。僕はね、親友にお金を貸したことでその友だちを失ってしまった、という悲しい思い出を持っているの。本当にこれだけは気をつけなさい」。

 ナオズミはたかが10円であろうとも、この助言を忠実に守った。「オマエという親友を失いたくないから、絶対に貸してやらない」

 一悶着という名の乳繰り合いがあった後、ナオズミが提案する。

「そうだ、オメェんちまで歩いていこう。寂しいだろうからな、ただで送ってやるよ」

 

 学生時分において既にナオズミは、作曲家の父のゴーストとして活動の場を持っていた。「ぼく」もオーケストラのバイトなどで場数を踏んではいた。

 とはいえ、いかんせん指揮者としてタクトを構える機会は一向に巡っては来ない。「振りてえよォ、振りてえォ」を持て余す、まだ何者にもなれない自意識ばかりの青二才に過ぎない。

 しかし、そんな雛鳥を温かく見守る庇護者が彼らにはあった。先にも引いた師、「アケちゃん」こと渡邉暁雄の存在である。

 師の「授業は楽しかった。手の振り方などのレッスンなどはあまりなく、結局先生のいろいろなオーケストラとの経験談とか、トスカニーニがオーケストラとどんなにケンカをしたとか、そういう面白い話ばかりだった」。

 テクニカルな面では、あるいは彼は「ぼく」に何を授けることもなかったのかもしれない。ナオズミが指揮の技術において師事したのも専ら齋藤秀雄だった。

 しかし、彼は「実に良い聞き手だった」。夜遅くに押しかけた教え子が気晴らしにと冗談半分ではじめた自身への悪口すらも笑って聞き流してくれた。他の教授が出る杭としての彼らを打ちにかかれば、身を挺して守ってくれた。

 そんな人物からただ一度、リハーサルでの不出来を一喝される。

「これだけは言っておく。指揮というものは、完全に勉強した後でしか、やってはいけないものです。ちょっとでも疑問があるうちは、指揮をしようという気など、起こさないこと」

「おそらく先生の生涯唯一の、はり倒しのシーン」、この教えを彼らは終生忘れることはなかっただろう。壇上から発せられる一方的なメッセージなど、たとえ意味内容がどれほど優れたものであったとしても、聴衆は誰も覚えちゃいない。「良い聞き手」のことばだからこそ、耳を傾けずにはいられない。

 

 やがてそんな彼らに晴れの舞台が訪れる。ふたりで立ち上げた通称「学響」が、秋の藝術祭にてメインを委ねられる。指揮台に立つのはナオズミである。

 その目玉として彼が選んだのは、大オーケストラに大コーラスで編成される、ドミトリー・ショスタコーヴィッチ「森の歌」。

 時のベストセラーの神通力によってか、想定をはるか超えてごった返す観衆たちを受けて、二回にわたり公演されることが当日急遽決まる。

「ぼく」は打楽器の担当としてナオズミを注視する。

 願わくば「ぼく」があの場所にいたかった。ライバルにしか見えない世界がある。

 途中「ぼく」は彼の「ワルツ叩き」に思わず見惚れる。「中庸な速さを指揮することは大変難しい。……/手の振りの中に、三つのリズムを感じさせねばならない」。

 やがて最終楽章に差しかかる。

メトロノームのテンポ132アレグロ・ノン・トロッポの四分の七拍子である。……/歌うほうはやさしいが、指揮者には、こういう四分の七拍子の連続は、かなり難しい」。そうして「ぼく」は思い出す。「どうやってこれを指揮するか、二人で長いこと、研究したのだった。討論とかケンカではなく、二人で知恵を出し合ったのだ」。

 農民よ、祖国の大地のためにいざ立ち上がれ。ショスタコーヴィッチの計算され尽くした社会主義リアリズムの奔流が爆ぜて、「民衆は熱狂するのだ。歌うほうも、聴くほうも。

 だれよりも指揮者が興奮していた。何度もとびはねた。シンバルを打ち鳴らしながら、何度も『ウォーッ、ウォーッ』の叫び声を聞いた。オーケストラとコーラスの、全員のフォルティッシモをこえて、ナオズミの叫びが響きわたったのである」。

 そもそも「学響」のはじまりからして、学生たちにオーケストラの実践機会を少しでも確保してやりたいとの大義名分を掲げ、その実、「ぼく」とナオズミが指揮棒を握りたいとの下心――という偽悪――のもとで、ふたりで立ち上げたものだった。ふたりだけでポスターを作り、呼びかけ、それでもなお笛吹けど踊らず、朝6時の誰も来ないホールをセッティングしては片づけた、そんな日々を潜り抜けて、遂に迎えた美しき夢の大舞台。ステージ上も観客席も、他の誰が知ることもない、「ぼく」とナオズミだけの物語がある。

「祭り」の幕引きを告げるのは、「ぼく」のシンバル。「最後の一発、指揮台のナオズミと目が合った」。

 こんなバディに誰が割り込むことができるだろう。

 

 カリカチュアも重ねられているに違いない、大言壮語も至るところに張り巡らされていることだろう。

 昭和の名物社長による酒の席での鉄板ネタが、こすられ倒した末にもはや原形を留めなくなってしまう、そんな現象におそらく本書の光景は限りなく似る。

 しかし、まだ誰もまみえたことのないユニコーンがウマのシルエットをまとうように、どんな荒唐無稽な神話であっても何かしらの真実を含まずにはいない。「ぼく」とナオズミに流れただろう濃密な時間、彼らが契ったホモ・ソーシャルな盟友関係、そしてその礎を与えた師弟の絆に嘘はない。少なくとも一読者には、そう信じる自由がある。

 

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