#BlackLivesMatter

 

 本書は、アメリカの大量投獄と極刑問題に迫ろうとするものである。立場の弱い人々と向きあうときに、不安や怒りに身をまかせたりあえて距離をとったりすると、人はじつにたやすく彼らを虐げ、不当に扱いがちになるのだ。そしてまた、現代史のなかでも激動の時代といえる“いま”を描くことも、本書の目的のひとつだ。あらゆる人種、世代、性別を超えた無数のアメリカ人の人生と、アメリカ人というものが包括的に持つ精神性が、くっきりと刻まれた時代である。……貧しい人や受刑者たちと仕事をすることで、私は知った――貧困の反対語は裕福ではなく、正義だと。そして最後にひとつ、私が信じるようになったことをここに述べておこう。アメリカはどんな社会か、はたして真の正義がおこなわれているか、司法の正当性と平等が本当に果たされているかについて判断するには、金持ちや権力者、特権階級、尊重されている人々の生活ぶりからではわからない。真の基準となるのは、貧者や疎んじられ非難されている人々、受刑者、死刑囚が社会でどう扱われているかなのだ。

 

 1986年のアリゾナ州モンローヴィルで、「白人コミュニティ全体がわが娘として大事にするような女の子」が銃殺される。捜査は早々に行き詰まり、警察や保安官への批判の声は日々高まるばかり。突破口は思わぬところから開く。別件で逮捕されたならず者のほら吹きが、とある男との共犯をほのめかしたのだ。ただし、当局が探りを入れてはみたものの、その両者に「なにか関係があったとは思えなかったし、逆に一度も会ったことがないと思える証拠ならたっぷり手に入った」。そもそも凶行を裏づける物的証拠など何一つなかった。おまけに男には鉄壁のアリバイがあった。やがて目撃者が現れた、とは言っても、現場近くを走り去った男所有のトラックが証言通りの姿に改造されたのは、事件発生から半年後のことだった。

 何もかもが支離滅裂だった。それなのに男は被疑者として捕らえられ、挙げ句、公判前だというのに死刑囚監房へと放り込まれ、そして陪審により死刑を宣告された。

 この奇怪な法廷を説明できる関数はたった一つだけ、つまり、被害者は白人、検事や判事、陪審、あるいは弁護士、地元メディア、果ては傍聴席までもがほぼ白人、ただし「加害者」である件の男は黒人だった。

 

 とある裁判で検察側の証人として法廷に立った精神科医は「医師免許を偽造していた。彼は大学も卒業しておらず、病院幹部を騙して精神科が専門の医師だと信じこませたのだ。彼はその詐欺行為が発覚するまで、8年間にわたって、病院で被疑者の訴訟能力を鑑定するふりをしていた」。

「タットワイラー〔刑務所〕の女性は看守たちにレイプされていた。彼らはさまざまなやり方で女性たちを苦しめ、蹂躙し、虐待し、襲った。……性暴力の習慣があまりにも根づいているせいか、刑務所付きの牧師さえ、礼拝堂に来た女性をレイプするほどだ」。

知的障害者の黒人女性、バンクスは、産んだばかりの赤ん坊を殺した罪で起訴された。彼女が妊娠したと考えられる確かな証拠さえないのに、である。……逮捕に先立つ5年前、バンクスは卵管結紮術を受けていた。つまり彼女は生物学的に妊娠不可能」だった。

 ページを繰れども繰れどもそのいずれもが、フィクションの原案として提出しても、ディストピア描写としてもう少しリアリティを持たせる努力をしろ、と突き返されるようなケースばかり。しかしこれらすべてがアメリカで現に起きたこと、それも南北戦争期の記録を掘り起こすような遠い過去ではない、ポストJFKLBJの、公民権樹立後の合衆国で筆者が実際に携わった出来事だ。

 無罪が証されたところで失われた時間は戻らない。どころか、たとえ「無実が明かされて釈放されても、ほとんどの人々は金銭も、援助も、相談も受けられない。……こんにちでさえ全国で半数近くの州(22州)はなにも補償しない」、無辜で押し込まれた挙げ句、監獄内で常習的なレイプにさらされていたとしても、看守の暴力で癒えることのない障害を抱えることになったとしても、だ。

 あまりにひどすぎる現実は、怒りすら超えて笑いに変わる。

 

 そして筆者は少し別の仕方でこの状況に笑いを見出す。

 例の死刑囚の釈放が決定された後の、面会時のこと。

「ユーモアのセンスは6年間死刑囚監房にいても変わらなかった。そしてこの事件のおかげで、彼は冗談の種を山ほど仕入れた。私たちはしばしば、たしかにおかげでいろいろと傷つき苦しんだとはいえ、そのくだらなさ加減についてつい笑ってしまうような、この事件にまつわる状況や人々のことを話題にした。しかし、その日の笑いは格別だった。それは解放の笑いだった」。

 笑うことで辛うじて繋がる希望がある。

 

 私がこの仕事をしているのは、私もまた壊れ物だからだ。

 不平等、権力の濫用、貧困、抑圧、不正に対し闘いつづけた年月が、ようやく私自身の真実を明らかにしてくれた。苦しみ、死、刑の執行、残酷な刑罰の間近にいたことで、他者がいかに打ちひしがれているかが明らかになっただけではない。苦しみ、傷ついたそのとき、自分自身が打ちひしがれた存在だということもまた明らかになる。権力の濫用や貧困や不平等や病や抑圧や不正と闘ったとき、それによって打ちひしがれずにいることなどけっしてできないのだ。

 私たちはみななにかに打ち砕かれている。私たちはみな誰かを傷つけ、傷つけられてきた。どう壊れているかはそれぞれでも、壊れているという点で私たちは同じなのだ。……

 誰もが等しく脆く、不完全であるということが、人への思いやりを育み、慈悲の気持ちを維持させる。

 笑いとは緊張の緩和である、と誰かが言った。張りつめた高ぶりに亀裂が走る、つまり「壊れ物」になることで笑いは生まれる。

 笑うことからしか、「壊れ物」を受け入れることからしか、何かをはじめることなどできない。