阿Q正伝

 

 沙飛とは、日中戦争(中国側では抗日戦争と呼ぶ)当時の中国共産党の軍隊である八路軍の一員として、十余年にわたって日本軍の占領地後方の華北の戦場を駆けめぐり、激しい戦闘場面だけでなく、戦禍に苦しむ民衆の喜怒哀楽を撮りつづけた八路軍で第一号とされる戦地撮影記者、すなわち戦場カメラマンのことだった。……

 世界的に有名な戦場カメラマンといえば、誰もがロバート・キャパの名を思い浮かべるのではないか。スペイン内戦で撮影した「崩れ落ちる兵士」が米国のグラフ週刊誌『ライフ』に掲載されたのをきっかけに、一気に世界中でその名が知られるようになった。

 逆にほとんどの人がその名を知らないが、「中国のキャパ」とも呼ばれる戦場カメラマンが激動の時代の中国に存在していた。以下はカメラで日中戦争を戦った中国報道写真の先駆者、沙飛という男の知られざる物語である。

 

 ここに一枚の写真がある。

 ひとまず注目すべきは左端の髭面の中年男性、その名を魯迅という。かねてより肺を患っていた彼は、木版画展を訪れたこのわずか11日後に逝去する。

 そして主題は、撮られた側から撮る側へと移る。撮影者の名は司徒傳。魯迅に憧れる一心で妻子と別れ単身上海へと乗り込んだ彼は、その「精神導師」の生前最後の姿をフィルムに捉えたことで一躍時の人となり、これを機に沙飛を名乗るようになる。

 これから程なくして開かれた写真展に彼は自ら文章を寄せて言う。

「現実の世界で、狂ったように侵略者によって多くの人々が殺され、踏みつけられ、奴隷とされている。このような不合理な世界は人類にとって最大の恥辱である。芸術の任務とは、人々に覚醒を促し、社会を改造し、自由を回復させることだ。芸術に従事する者、なかんずく撮影家は自己陶酔に陥ることなく、社会の各階層の隅々まで深く入り込み、現実を映し出す題材を探さなければならない」。

 まさに「精神導師」の教えをそのまま翻訳したかのようなこの言だが、活字媒体に比べて写真にはひとつ決定的な優位があった。つまり、「非識字者が億という単位で存在する社会状況の中で民衆を『抗日救国』に立ち上がらせ、その先頭に立つ共産党の活動ぶりを宣伝するには、『文字よりも写真が有効である』」。その昔の西洋キリスト教社会において、宗教画が「見る聖書」としての役割を果たしたのと同じ仕方で、彼は前線で「カメラを武器に戦」い続けた。

 

 ただし、その帰結はあまりに皮肉なものだった。

 現代において、彼の状態に診断をつけるのはおそらくはそう難しくはない。

 PTSD

 従軍者がその衝撃から往々にして患う典型症状に沙飛こと司徒傳もまた襲われていた。

 いずれにせよ、19491215日、戦後も大陸に留まり医療活動に従事していた日本人を彼は銃殺した。この廉で死刑が執行されたのは、それからわずか3カ月後のことだった。

 当時の党本部による見立てでは「有害かつ極端に狭隘な民族主義」による凶行、司法が辛うじての「平反昭雪」を認めたのは、それから36年後のこと。

「この事案は再審の結果、沙飛が津沢勝を射殺したのは精神病を患った状況下で起きたものであり、その行為は自らコントロールすることができず、刑事責任を負わせるべきでない。原判決が沙飛の狭隘な民族主義思想、政治上の極端な立ち遅れを確認し、併せて“殺害を企んだ”として死刑を処したのは誤りであった。これは正すべきである」。

 カメラのAIテクノロジーに万能のパノプティコンを夢見ようとも、人間の肉眼は決して客観性へと開かれる瞬間を持たない。たとえレンズを媒介しようとも、そのことは変わらない。見る者と見られる者、撮影者と被写体が瞬時にして反転する。戦場において引き起こされるこの視線の政治学は、その場に立ち会う誰しもを蝕まずにはいない。

 沙飛を通じて私たちは見る、一度はじまった戦争は携わった誰しもを生涯にわたって決して解放することがないのだ、彼らには終戦の日など決して訪れはしないのだ、と。

 

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