合理的配慮

 

 テレビから女性キャスターの〈速報です〉との声が聞こえ、舞はトーストをもぐもぐ咀嚼しながら目をやった。

〈昨夜未明、兵庫県神戸市北区にある神戸拘置所に収監されていた少年死刑囚が脱走したことがわかりました。少年は今から約1年と半年前、当時18歳のときに埼玉県熊谷市に住む一家3人を殺害した罪で、死刑判決を受けていました。なお、脱走した少年は現在も捕まっておらず、警察は全力で少年の行方を追っています〉……

「そういえばこの犯人、自分を褒めたいとかって言ったんじゃなかった?」

 母が思い出したように言った。

「褒めたいって?」舞が訊く。

「死刑判決を受けたときに、犯人の男は法廷でこう言い放ったんだよ。『自分を褒めてやりたい』って」

 父が吐き捨てるように言った。

 

 以下、壮絶にネタバレヴューをする。

 以下、壮絶にブチキレヴューをする。

 

 本書は、三人称目線から、犯行当時18歳の死刑囚、鏑木慶一の逃避行を追う。

 あるときは東京オリンピック前夜の飯場に住み込み、あるときはグループホームで介護スタッフに従事し、またあるときは新興宗教セミナーに潜入する。

 この小説が出版されたのは、20201月のことだという。コロナを知らないこの幸福な世界線は反面、今日の視線からはさる指名手配爆弾魔の最期や新興宗教に起因する暗殺事件を想起させるような、どこか預言の書としての香気をまとわずにはいない。もっとも、図らずも帯びてしまったこの時事性にたまさかの偶然という以上の意味はなく、何をどうこじつけようともオカルトのトンチキ悪ふざけの他に何が生まれることもない。

 それはさておき、鏑木の一連の旅路には単に死刑執行のその日を免れるという以上の意味があった。これがプロットの根幹で、つまりは冤罪を被らされた彼が、事件の真相を白日にさらして汚名を雪ぐ、ということなのだが、この仕掛けが残念ながらあまり機能していない。

 なぜなら、それでもボクはやってない、というギリギリまでぼやかされつつ展開していくこの核心が、文体からしてあまりに自明なのである。この偽名での逃避生活が、本当は偽名でもなんでもなくすべて赤の他人によるものでしかなく、この桜井なり袴田なりが鏑木のなりすましだって言いましたっけ、というようなアホくさい叙述トリックの具に堕していないだけ潔くはある。がしかし、頭脳も明晰で、倫理観にもすぐれ、そして勇敢で、おまけに国宝級イケメンというこの完全無欠のスーパーヒーローが、これだけの紙幅を費やした末になんと、己の無辜を証明するために着実に段階を踏みながら奔走していたんです、と言われても、うん、だってはじめからそういうキャラクターとして組み立てられていますものね、としかなりようがない。ならばいっそ、彼の視線からタクティクスを可視化してくれた方が読む側にとってはスリルも生まれていたかもしれない。

 鏑木が日々の生計をつなぐために潜り込む現場というのは、いちいちの身元証明や社会保険を要求されることもないような、つまりは日本社会の最底辺の労働環境である。サスペンスの牽引力にかこつけて、そうした地獄巡りをドキュメンタリー的に見せていく松本清張チックな手法を取り入れることもあるいはできたかもしれないが、そこに丹念な取材に基づくリアリティまでは感じられない。

 そうして鏑木に代わって差し出される真犯人にしても、物語の幕引きのために調達されたご都合主義的存在でしかなく、読者の膝を打たせるような謎解き要素がその導出に横たわっていたとは見えない。

 

 つらつらと羅列してはみたものの、ここまでのトピックなど些末なものに過ぎない。

『正体』がはらんでいる少なくとも私にとっての最大の疑問点は、通俗道徳の罠である。

 この小説の実のところの最高の見せ場は、逃避行の中で死刑囚に救われた人々が立ち上がって、司法によって一度は判決が確定した彼のためにその疑惑を晴らす、というところにある。むしろ事件はサブストーリーに留まり、いわば改心を促した鏑木慶一の聖人伝、使徒行伝とでも読み替えられるべき性質のものである。さらにラディカルに変換すれば、善行を積み重ねていれば誰かが必ず報いてくれる、報いられないとすればそれは単にあなたの努力が足りないから、そんな通俗道徳を布教するための書である。

 刑事司法の問題、社会システムの失敗を個人の倫理にすり替えられても、だからなんだよ、としか言いようがない。鏑木が救済されるべきなのは、彼が秀でた人格の持ち主だからではない、単にその死刑判決が事実誤認の冤罪に由来するからである。たとえその被告人もしくは受刑者がどんなに腐り果てた人間性の持ち主であったとしても、万人の目に犯行を疑う余地がないとしても、それはそれ、誰にでもデュー・プロセスの中で守られなければならない人権がある。

 昨今語られる社会福祉のキーワードに、困っている人は困った人、というフレーズがある、らしい。つまり、個人的な関係性からハブられた鼻つまみ者(=困った人)が、往々にしてそのセーフティ・ネットの欠如ゆえにこそ困窮状態に陥らざるを得ないというそのジレンマを指している。普通に考えたら助ける気も起きないような、その彼なり彼女なりが保護されるべきなのは、決して人格への報酬としてではない。ズルいわけでもない、わがままなわけでもない、甘やかされているわけでもない、人が人であるがゆえにこそ、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」している、その反映に過ぎない。鏑木に真実を明らめる機会としての法廷の場、再審請求が与えられねばならないのは、彼の篤実な人格に認められたリワードではない、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」その行使に過ぎない。いかなる重大案件が発生しようとも、「何人も、自己に不利益な供述を強要され」てはならないし、「自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられ」てはならないし、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁」じられねばならない。

 ところが、今日の世論ならばためらいもなく言うだろう、たとえ冤罪をかけられても、クズがクズであるがゆえの自己責任だ、疑われるには疑われるなりの理由がある、疑う側にも疑うなりの事情がある。「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜を罰すなかれ」なんて建前で、凶悪犯罪の早期解決のため、検察延いては国家の威信のため、時に犠牲は付き物なのだ――

 彼らは自らに火の粉が降りかからぬ限り、いかなる生贄も辞さない。

 

 たぶん私が何かしらに過剰反応を来たしているだけなのだろう。車椅子のユーザーに利便性を認めるのはあくまで健常者様からの特別な思し召しでしかなくて、障害者たるものすべからく謙遜や慎みとともにその生を営むべしとでも咎めるような、座敷牢の時代から何ひとつ変わらない愚かしい通俗道徳に対するフラストレーションが八つ当たりのように本書に注がれているだけなのかもしれない。

 しかし、私はこのレヴューを我田引水だ、牽強付会だ、全くの誤読だ、などとはやはり考えることができない。

 本書の中で鏑木のために、鏑木に代わって立ち上がる人というのはそのことごとくが、実生活において彼と接した経験を持ち、なおかつ何かしらの恩義を感じる者に限られている。つまりこの世界線の中では、その外側の人々に鏑木の「正体」が全く届いていない。双方ともにその判断を日々の暮らしの具体性にしか由来させることができない。そこに半径数メートルのソーシャルはあってもコモンはない。体験を伴わなければ、彼ら忠実なる臣民は、模倣犯すら生成させたモンスターという大本営発表のラベリングをテレビやまとめサイト越しに受け取ってすべての思考を停止させる。彼らは人が人であるがゆえにこそ人として遇されねばならない、そんな「想像の共同体」の成員であることが決してできない。

 すべて人権は天与のもの、そんなフィクションがフィクションだと分かり切った上で、あえてその全きフィクションに没入する。なぜならばそのフィクションの貫徹された世界線の方が、リアリストとやらが口走る前近代型封建制の鼻白む縮小再生産的現実よりはいくらかまともなものだから。

「集団自決」のない世界とある世界、どちらがマシか、そんな想像が近代を生んだ。ただし、『正体』というフィクションの世界線において、想像というメディアによって発生した世界線において、どうやら住人は想像という営みを止めた。

「嘘は疲れます。できればつかないでいたいものです」。

 そんなディストピアのリアルが、この国の「正体」が、本書はには確かに反映されている。

 

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