アメリカの反知性主義

 

 チャーリー・ブラウンは立場を決めるとき、ひどく悩む。これぞこのキャラクターのいつものユーモアだ。そして、チャーリー・ブラウンにたくさんある、自分の大嫌いなところのひとつでもある。……

「優柔不断」こそシュルツのイデオロギーなのだ。実際シュルツは、政治に関して一種のカメレオンだった。冷戦期アメリカの政治文化における幅広い中間層のあいだで、右へ左へ変身を遂げたのだ。シュルツは読者にロールシャッハテストのように機能する場面を描くのが巧みだった。物議をかもす論題を提示しつつ、大いに多義的なところがあるために、読者はひどく嬉しかったりむかついたりするものをそこに見てしまうのである。1950年から2000年まで、さまざまな問題について人々が抱く複雑で多岐にわたる感情を、シュルツは漫画で映し出したり増幅したりした。これは、市民宗教、人種統合、女性の権利、あるいは資本主義の没落や自然環境の悪化やベトナム戦争、これらに対する恐怖まで含まれる。……

 本書は……『ピーナッツ』が単なる現実逃避の作品ではないことを明らかにする。むしろ『ピーナッツ』は、社会的・政治的意識を持つ戦後のアメリカ人たちが生きた経験に繰り返し触れている。政治的見解を異にする読者たちが、『ピーナッツ』に見いだした考えをめぐって論争するためシュルツに手紙を書く――こんなことが何度も繰り返されてきた。しかし、それよりもはるかに示唆に富むのは、正反対の意見を持つ人々がまったく逆の理由から同じコミックを愛するという現象が何度も起こっていることである。

 

 人類史上、前例を見ようもない国民作家がここに生まれる。

 チャールズ・モンロー・シュルツをめぐってそう断言しても差し支えないのには、相応の論拠がある。なにせメディア環境が違う。シンジケートを介して全米の複数の新聞に掲載されることで同じ日に数百万、数千万人の目に触れる、こんなコミックストリップは未だかつてなかった。全国放送を通じて数千万人に視聴される、こんなアニメが生まれるにはテレビ技術の発達を待たなければならなかった。ましてやその同時接続者たちから山のような手紙が届く、こんなことは現代に国民作家と称されるいかなる歴史的文豪も経験していたはずがない。そもそも人口のキャパシティからして桁違いである。

 そしてマスによってはじめて可能となったこの存在は、「時代時代にアメリカや世界が直面してきた深刻きわまりない事件に対して、あまりに無関心であり過ぎる」との批判をあざ笑うように、どこまでも果敢だった。

 公民権運動燃え盛る1968年のこと、シュルツは新たなるキャラクターとしてフランクリンを投入する。少なからぬリゾート地のビーチが肌の色によって仕切られていたまさにその最中に、この黒人少年は「首尾よく泳いで海から出て、周囲の大人たちから一切抗議を受けるでもなく、チャーリー・ブラウンと一緒に堂々とビーチに立」つことで颯爽とその初登場を果たした。1974年のある回に至っては、アイスホッケーの練習に励む彼に向けてペパーミント パティがこんな問いを投げかける。「NHLには何人の黒人選手がいるの、フランクリン?」ちなみにこの当時、現役のプレイヤーといえば、ただひとりだけだったという。

 ただし実は、本書はそのマニフェストとしてシュルツ個人の評伝ではないことを繰り返し強調している。あくまでその力点は、彼の作品を受け止めたサイドへと注がれる。

 フランクリンの登場にいたく感銘を受けた読者のひとりは、黒人運動団体のマスコットにこのニュー・カマーを推薦せずにはいられなかった。別の読者にとっても、彼は一躍公民権のアイコンとなった。そのファンレターが夢想するところでは、マンガの世界と同様に「もしすべての人々が生活のなかに『新たなキャラクターを登場させる』ことができれば……『恐怖、不寛容、偏屈、憎悪への戦いはすぐに終わる』」。あるいはベトナムの地で触れた黒人兵士は、「仲間たちがこのマンガを読んだとき、どれくらいの騒ぎが起こったか、絶対にわかってもらえないでしょう」と作者にリポートせずにはいられなかった。

 どんな自然主義作家の名手が、これほどの数の共時的なリアクションをかつて引き出し得ただろうか。

 

 そうして彼は、反知性主義アメリカを体現し続けた。

 ベトナム戦争の真っ只中に彼が描いたのは、レッド・バロンに扮したスヌーピーの姿だった。あくまで表面的には、第一次世界大戦のドイツの英雄、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンをなぞってこそいるが、それが東南アジアを仮託した婉曲な寓意であろうことは読者の誰しもが気づいていた。そこにシュルツは「兵士たちへの確乎とした支持」を投影した、ただし同時に、「戦争への支持とは別物だと考えていた」。

 しかし、ここでも受け手たちは時に異なる見解をこの連作の中に見出した。「保守的な人々にとって、スヌーピーの戦争が鏡のごとく写し出していたのは、ベトナムにいるアメリカ兵をサポートし、国への忠誠を保持しようとした自分たちの戦いであった」。彼らは結局、前線で命を賭して戦う兵士たちを楯にして、たとえ消極的な仕方であろうとも、戦争と母国を支持し続けた。仮にも民主主義を掲げるその国にあって、「戦争を呪いながらも戦いをやめることは拒絶した撃墜王、あるいは、徴兵への恐怖は遠慮なく口にしつつも運命を受け入れていたチャーリー・ブラウン、彼らに似て多くのアメリカ国民は、敗北という選択肢がその世界観になかったがゆえ、よくわからない戦争に対峙していた」。そうしてUSAをやみくもに叫び続けて、やめるという当然の判断すらできない国家を、むしろ能動的にサポートして、挙げ句勝手に打ちひしがれることとなる。一見すれば「優柔不断」、しかしそれは流される、という固い決意の別言に過ぎない。

 ちょうどそのころ、マーティン・ルーサー・キングは演説していた。「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である」。いや違う、彼ら自称「善人」は、「優柔不断」の「沈黙」をもって、事実としてむしろ積極的に「悪人」へとコミットしているのだから。知性を欠いたすべて彼らは、自らを「悪人」と認識する能力すら持たない。そうして「悪人」であることに気づかぬまま、被害者面だけを一丁前に決め込んではばからない。

 このスタンスは、環境問題へのアプローチにより明快に示される。シュルツが言うことには、「大気汚染の原因は、環境に対するみずからの責任を縮減したアメリカ人なのだ。……つまり求められるのは、規制ではなく個人による解決なのである」。彼らは政府や企業の無策すらも個人化して吸収した、もしくは自己責任として他人へと転嫁した。彼らにとって自然破壊とは、各人が「落ち葉やゴミを燃やすことや、未整備の車やバイクなどに乗ること」であり、抑止策とはひとえに各人の自助努力だった。あるアンケートが指し示すところでは「大企業を環境汚染と結びつける回答はわずか3%」、このキャンペーンの片棒を『ピーナッツ』は紛れもなく担いでいた。

沈黙の春』はいずこかへと消えた。

 

 それは時代の寵児たるシュルツの宿命だったのかもしれない。

 いみじくもテレビなる遠隔性tele-を語源に持つその装置は、同時視聴の経験を通じて人々を束ねるどころか引き離すことに成功した。シュルツも身を置く福音派に限らない各宗派が、毎週日曜日の教会通いやチャリティをもって人々の輪を提供していたのも遠い昔、ジェリー・ファラウェルをはじめとしたテレヴァンジェリストたちは、まさにその箱を通じて誇大妄想的にネオリベラリズムの教義を孤独な各家庭へ向けて送信し、そうしてmake America great again共和党の岩盤集票マシンとしての地位を構築した。

 遡って1965年の冬にその兆候は既に現れていたのかもしれない。彼がタクトを揮った『チャーリー・ブラウンのクリスマス』は、高視聴率をもって迎えられた。その中でキャラクターたちは聖書を片手に、プレゼント商戦の物質主義化したこのホリデーの本義を説いた。この日はサンタクロースを迎えるための日ではない、あくまでキリストの誕生を敬虔に祝う日なのだ、と。例によって手紙の送り主たちは賛辞を尽くす、政教分離等への配慮からうかつに宗教を広めることもできない時代に、「わたしたちの教会の聖職者の説教では無理なほどの影響を子どもたちにあたえてくれました」と。コミュニティが消えて、テレビが残る、この未来を一通の手紙が予知していた。とどめの仕上げは、モータリゼーションがもたらしたスプロール化である。結果どうなったか。人々が互いを遠ざけるようになった末に、関わり方すら分からなくなった。かつてなら何かしらの仕方で顔見知りであれたかもしれない路上の歩行者が、今や単なるストレンジャーとして通報の対象となる。

『ピーナッツ』は、まさにその時代の象徴だった。テレビを観ている暇があるのならば、お手紙なんて書いている暇があるのならば、地域の誰かとコーヒーでも酒でも飲みながらまさにその話でもしたらいい、そんな雑談すら交わせない孤独な時代だからこそ、スヌーピーは逆説的に不世出のアイコンとなることができた。

 読者のお便りが伝えていたのは、当時においてすら、是々非々の議論などではない。彼らは像を共有するためのプラットフォームを持たないのだから、単に各々がスヌーピーという空虚な中心に向けて、見たいものを見ることしかできなかった。

 タウンシップを持たない彼らは、社会の問題すらも個人の次元で消化しようとして、もちろんそんなことは不可能なので、問題は問題のまま、解決されずに放置され続ける。「優柔不断wishy-washy」をあえて選んだわけではない、他なる道を剥ぎ取られてしまった分断の時代の帰結に過ぎない。他にすることがない、できることがない、だから、「優」しさもなければ「柔」かさもない彼らは、今日もテレビにしがみつく。

 その空気を『ピーナッツ』は見事に捉えた。だからこそ、アメリカ人マジョリティにとってのライナスの毛布となれた。これを可能にしたのは、何よりもテレビだった。メディアがメッセージを規定する、マーシャル・マクルーハンのテーゼにシュルツはどこまでも忠実だった。

 そうして反知性主義者たちは自壊した。

 

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