ラッパのマークの征露丸

 

鉄路の果てに

鉄路の果てに

 

 

 日米開戦の翌年である1942年(昭和17)、父は陸軍に招集され鉄道聯隊という部隊に配属されたという。千葉の聯隊施設で訓練を受けてから中国へ。すでに太平洋戦争が始まっていたわけだが、父が送り込まれたのは日中戦争だった。架線に関わったりしながらしばらくハルビンに滞在。敗戦時にソ連の捕虜となってシベリアに抑留された。何もかもが凍る激しい寒さの中で、腐ったような味がする黒パンで命をつないだという。……

 

   だまされた

 

 父はいったい何を言いたかったのだろうか。

 散逸寸前に見つけた数枚の走り書きと地図は何かの道標なのだろうか。

 東海道線に重なって動き出した赤い線は、生命を帯びたかのように紙の上を進んでいた。下関から対馬海峡を渡ると、朝鮮半島の釜山から再び鉄道線上を進みソウルを経て大陸へ。中国のハルビンを抜け、その後はシベリア鉄道で遠くロシアのバイカル湖畔まで延びている。

 朝鮮、満州、シベリア――。

 西へ西へと鉄路をなぞっていく赤い導線。

 父が遺したこの線を、私は辿ってみたくなった。

 

 筆者の代名詞である「調査報道」の厳密性には遠い。歴史研究というほどの徹底があるとも言えない。落語でいう一八役を引き連れることで読み物としての柔らかみを持たせる工夫が施されてはいるが、一介の旅行記、紀行文、ましてや珍道中と呼ぶのもいささかニュアンスを異にする。私小説と言って言えないことはない。

 いずれにせよ、しかしそこには紛れもなく歴史がある。その語り部は鉄道だ。

「シベリア経由 一枚ノ切符デヨーロッパヘ」、1913年に鉄道省が開始したキャンペーンのコピー。東京を発ち、フェリーで海をまたぎ釜山へ渡り、ユーラシアを横断し、その終着駅はなんとパリ。当時でざっと二週間、現代の旅客機の速度には遠く及ばず、ただしその大地は鉄道でつながる。朝鮮半島満州とくさびを打ったその先に、ライフラインを通じてグローバリゼーション、帝国主義の夢が垣間見えた、見えてしまったとして、何の不思議があるだろう。果たしてそれは自衛のための防波堤だったのか、はたまた侵略のための布石だったのか。

 大正期、この構想にいち早く警鐘を鳴らしていたジャーナリストがある。石橋湛山、後の首相である。

 論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲として置くことが、国防上必要だというが、実はこれらの土地をかくして置き、もしくはかくせんとすればこそ、国防の必要が起こるのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起こった結果ではない。しかるに世人は、この原因と結果を取り違えておる。謂えらく、台湾・支那・シベリア・樺太は、我が国防の垣であると。安ぞ知らん、その垣こそ最も危険な燃え草であるのである。

 残された「赤い導線」を辿る旅はすなわち、「燃え草」の跡を辿る旅。

 ロシアと中国の国境駅、ザバイカリスクでの出来事。線路の幅が切り替わるため、台車交換により降車を余儀なくされる。そもそもがロシアが敷いたはずの鉄道なのになぜ軌間が変わるのか、その鍵は日露戦争にあった。「鉄道を軍事利用したかった日本軍は、仕方なく日本国内から急遽運んだ機関車や貨車を使うことにした。だが、日本の国鉄1067ミリである。そこで東清鉄道のレールの片側だけを横にずらし、線路幅を1067ミリに狭めることにした。……だが、日露戦争が終わるとまた別のやっかい事が起こったのだ。/それまで日本が敷設していた朝鮮半島の鉄道などは1435ミリ幅だったからだ。今後、朝鮮-満州を連絡するためには線路幅を揃えねばならないという『事情』が残ったのである。……つまり、この駅で現在ロシアが行っている面倒な台車交換作業と、我々が延々と待たされているその理由は『日本の事情』だったのである。/そして目前に敷かれている『四線軌条』とは、かつて日本軍が行った侵略戦争を今に伝える生き証人ともいえるのだ」。

 

 そして「赤い導線」の終着点、バイカル湖畔に復讐の女神が舞い降りる。

 1903年、モスクワとウラジオストクをつなぐシベリア鉄道が、東清鉄道を経由して開通する。鉄道の輸送力が補強されてしまえば、日本の悲願である遼東半島支配はいよいよ遠ざかる。ところで、開通とはいったものの、実は一点、バイカル湖畔のルートだけが残されていた。水路で補ってはいたものの、冬になれば凍結し、砕氷船をもってしてもどうにもならない。「シベリア鉄道危険説を唱えてきたタカ派や恐露病に罹患していた国民は黙っていられなかった。ロシアと戦争するならバイカル湖迂回線が完成する前ではないのか」。

 このラストチャンスの「40年後、ソ連と名前を変えたロシアはその貸しを取り返しにやってくる。……ドイツ軍を破ったソ連軍は、……満ソ国境へと移動していたのである。/シベリア鉄道を使って――。/……大動脈に変貌したその路線を昼夜問わずフル回転し、延べ136000両もの鉄道車両を使ってピストン輸送したのだ。157万人もの兵士。T34型戦車や自走砲など5200両。大砲や実弾などを積載した貨物列車が欧亜の鉄路を走り続けていたのである」。

 この89日の予兆を、日本軍は把握していた。「にもかかわらず『日ソ中立条約は有効』などと都合のいい解釈を続けたあげく、ソ連に米英に対する和平仲介を依頼し、あるいは根拠もないまま『ソ連の進行はまだ先』などと事態を軽く見て放置。/最前線の危険地帯に一般人を放置したあげく最後に切り捨てたのである」。

 人々がかつて王道楽土を夢見た場所が地獄へと変わる、いや、地獄へと変えた。

「新京付近には14万人の邦人が在住していた。その一部だけが密かに用意された18本の特別列車で朝鮮に向けて脱出する。列車に乗れたのは軍関係家族や公務員家族、満鉄関係者など38000人だったという」。

 敗戦から間もなく、筆者の父は捕虜としてイルクーツクへと送られた、言うまでもない、「シベリア鉄道を使って――」。

 

 この世の続く限り、存在の耐えられない軽さを自ら証するために、人間の口はあらん限りの嘘をつく。対して、かつて運命の帰趨を決した沈黙の鉄路が束の間、雄弁に語り出す。