本書の主題となるのは、北米大陸西海岸に点在する部族から収集された仮面の数々。
具体的な形態はどうであれ、基本的な形式は変らない。例えば、木製の円筒状の目玉がそれであり、不完全な彫刻をほどこされたもので、かつては白鳥や山鷲の羽の王冠……を戴き、その王冠の間には、羽毛の玉飾りのある数本の細い棒がついていて、踊り手の動きにつれて揺れるようになっていた。さらに仮面の下部には大きな襟飾りがついていて、かつては硬い羽根で作られていたが、近年では刺繍した布になっている。しかし、古い写真に見られるこのような飾りを考慮に入れても、仮面の神秘的な様相は解き明かされぬばかりか、かえってその異形性が増すばかりである。なぜ一見、他の部分とは関係のない鳥の頭が、しかもおよそ異常な形で付いているのか。なぜ、あの突き出した目がこれら全ての様式の不変的な特徴をなしているのか。さらに言うならば、なぜあの殆んど悪魔的と言ってもよい様式が、生れたのであるか。周辺文化のみならず、その当の仮面が生れた文化の中においてさえも他に類似物の見出せないにもかかわらずである。
これらの疑問の全てに対して、私は、仮面もまた、神話と同様、それを一つの孤立した対象として、それだけを、それだけで意味のあるものとして解釈することはできないということを理解するまで、解答を見出すことができなかった。
この難問に対して、レヴィ=ストロースはいくつかの道具立てをもって快刀乱麻を断つ。
例えば上記のスワイフウェ仮面の特徴を反転させたように、黒色で固められ、窪んだ目、窄めた口を持つゾノクワの仮面。そして、この対比にとあるテーゼが補助線として持ち込まれる、すなわち、一つの集団から他の集団へと、造形的な形が保有されるときには、意味上の機能は逆転する。反対に、意味上の機能が保有されるときには、造形的な形の方が逆転する。
つまり別の部族において「造形的な形」においてスワイフウェと類似したクウェクウェ仮面が観察された場合には、「意味上の機能」として片や富の分け与えを、片や吝嗇を指し示す。逆にゾノクワがスワイフウェ同様に気前の良さを示す、つまり「意味上の機能が保有される」場合においては、「造形的な形」において逆転の図式を提示する。
「調査を続けながら、我々がこうして常に遭遇するのは、一つの同じ主題であり、それは、余りにも近すぎる者同士の結婚と、余りにも隔たった者同士の結婚との間の調整という主題なのである」。こうしてかの浩瀚なる処女作のモチーフはここにおいても踏襲される。例の富と吝嗇をめぐるポトラッチ問題についてはむしろ強化されてすらいる。交叉イトコ婚をめぐるテーマは表面化することなく、むしろ仮面や財産を軸とした法人格としての「家」に焦点が当てられるなどの違いはもちろん認められはするが、コンパクト版『親族の基本構造』と説明しても、甚だしい誤認と糾弾される筋はなかろう。
と言ってはみたものの、やはりいささかの罪悪感に苛まれずにはいられない。それではまるでかの巨人をして、パチモンコピーを乱造するそこらのワイドショー芸人、ベストセラー作家様呼ばわりしているようなものではないか、と。
ソリッドで透徹した文体に触れる、読書という営みそれ自体がクロード・レヴィ=ストロースをクロード・レヴィ=ストロースたらしめる。テクストを通じて、テクスチャーが浮き上がる。
現在でもなお、多くの民族学者や美術史家がするように、一つの仮面が、いや更に一般的に言って、一点の彫刻や一点の絵画が、それぞれの表わしているもの、あるいはその目的となっている芸術的な、または祭儀的な用途によって、それ自体として解釈され得るというのは、全くの幻想にすぎないと言うべきであろう。我々が見てきたことは、反対に、一つの仮面はそれ自体においては存在していない、ということであった。一つの仮面は、その傍らに常に存在するものとして、その代りに選ぶことのできるような、現実の、あるいは可能性としての他の仮面を、前提としているのである。……仮面は、それが語り、あるいは語っていろうと信じているものによってのみ成立しているのではなく、それが排除しているものによっても成立しているのである。
そのことは、すべて芸術作品にも共通して言えることではなかろうか。アメリカ原住民の仮面の種類をいくつか反省の対象にすることによって、我々は、様式の問題という、遥かに広い問題を提出したいと思ったのだ。同時代のいくつもの様式は、互いに互いを知らずにいることはない。未開民族といわれる者のなかにあっても、戦争とそれに続く掠奪や、部族間の儀式、結婚、市、その時々の交易などに際して、ある種の親密な絆が結ばれるのである。……
機能主義が我々に遺し、現在なお多くの民族学者をその支配下に置いている最も有害な考え方は、未開民族の集団とは、それぞれ孤立して全くの閉鎖状態に存在するものであり、それぞれの集団が、美意識の上でも、神話の上でも、あるいは祭儀の上でも、それぞれに特有の体験を全く自身たちだけで実践しているものだ、という考えである。……
孤独を欲する芸術家は、恐らく稔り豊かな幻想を抱いているのであろうが、しかし、彼が自分自身に与えている特権は、何ら現実性をもってはいない。彼が、全く自己の内的欲求に従って自己を表現しているとか、独創的な作品を作っているのだとか信じているとき、実は彼は、過去、現在の芸術家に、現在活躍中か潜在的な芸術家に対して答えているのだ。人がそれを知っていようと、知らずにいようと、創造の小径は、決して独りきりで歩むことはないものなのである。
コードの共有を前提せずしてどうして表現が成立しようか。主張それ自体はごくシンプル、あえて独自性と言えば、生活共同体の枠を超えて思いのほかその回路は外部へと開かれている、という点か。上記の引用だけでも意味内容はさして苦もなく伝わるだろう。しかしこの名文もまた、「それが排除しているものによっても成立しているのである」。愚かにも読み手によって飛ばされたテクスト、あるいは碩学の手により打ち出されることすらなく消えた幻のテクスト――膨大な資料のクリティークから不意を打つようにことばが爆ぜる。
無関係に散在しているようにしか見えないピースが天啓のように繋がる。
繋がる。
そのことこそが、レヴィ=ストロースを比類なき存在たらしめる。