股間巡礼の旅に出て、かれこれ4年になる。旅立ちの日ははっきりと覚えている。場所は赤羽駅前、平成20年5月2日が、この本の冒頭に登場するふたりの若者に出会った日だった。
一瞬、我が目が曇ったのかと思った。あるべきものがあるようでないそれは、本当に不思議な股間だった。強いてあげれば、バレーダンサーの股間に近い。もちろん男のもっこりとした方である。
いったいどこから、こんな曖昧模糊とした股間表現が生まれてきたのかを知りたいと思った。そして、その持ち主が一糸まとわずなぜ駅前に立っているのか、通行人の多くはなぜ目を留めようとしないのかについても考えてみたかった。
家人にも友人にも黙ったまま、ふらりと旅に出た。つぎの町のつぎの裸の若者をめざして歩いているうちに、どこからか言葉が降ってきた。それが「股間若衆」だった。……
巡礼の旅は過去へも通じており、その道すがら、股間若衆がつぎからつぎへと現れた。「曖昧模っ糊り」ばかりでなく、葉っぱや腰巻き、フンドシやパンツで隠した多種多彩な股間若衆の世界、その過去と現在を『芸術新潮』の誌面で開陳しませんかというありがたいお話をもらった。
ここに一枚の写真がある。
ダビデ像、おそらくは世界で最もよく知られた、全裸男性の彫刻像である。
この像に限らない。男だろうが女だろうが、許可を得たヌーディスト・パレードでもない限り、同じ格好で街を徘徊しようものなら、ただちに警察にしょっ引かれる。「裸で何が悪い」などと酒に任せて大立ち回りを演じたところで、オマージュですと言ってみたところで、公然猥褻なりの罪状を免れることはできまい。
ところが、これが一度彫刻やオブジェともなれば、どうしたわけか、話がまるで変わってくる。なんなら自治体が大枚をはたいて、芸術作品との名のもとに駅前広場や役所に堂々と飾ってくれたりもするのである。
ミケランジェロはまさか聖書の中のダビデさんに一面識もあろうはずがない。まず間違いなく誰かしらのモデルがいて、それを模倣して作られている。そのモデルが仮に全裸でフィレンツェの街をさまよっていたら、たぶん当時のモラルであってもアウトだっただろう。しかし、ダビデとの名が与えられた瞬間に不滅の芸術との名声を得る。ケネス・クラークを改めて思い起こすまでもない、コードがヌードとネイキッドを隔てる。
本書が明かすのは、文明開化後の日本においてたどられた、男性のヌードをめぐる、コードの歴史について。
といって、いきなりそのちゃぶ台をひっくり返すような像に出くわす。
松本喜三郎作の『貴族男子像』(1878年)。
言うなれば幕末から明治期のマネキン、「貴族」たることを証明するように、絢爛な衣装をまとうことを前提に作られている。普通に考えれば、覆われるべき個所を「これほどリアルにつくる必要はまったくなかったのである」。けれども現にこの通りの造形を帯びている、すなわち、それだけのノウハウが培われてきたことを証する。道祖神を思えば、あるいは生々しい性器をあらわす文化の土壌が今日にも引き継がれていたとして、何の不思議もない。
しかし日本社会は維新以後、「曖昧模っ糊り」の迷宮をひた走ることとなる。
裸体芸術は猥褻物か、との騒動からただちに想起されるだろうは、黒田清輝『裸体夫人像』。絵画の局部のみが布で隠される、という前代未聞のあの措置である。この騒動は、「裸体であるというよりも、むしろ裸体の一部分が問題視されたことで画期を成した。官憲の目も、それに応じる関係者の目も、それを眺める鑑賞者の目も、いわば全身から下半身へ、さらに局部へとフォーカスを絞り込むことになったからである。/……問題をこんなふうに身体の一部分に限定してしまえば(まさしく「陰部」という陰のある表現に象徴される)、それさえ隠せばよいことになる。それなら、面倒なことに巻き込まれる以前に、あらかじめ隠してしまえばよい。というわけで、腰巻きを巻いた絵画ではなく、腰巻きを巻いた女を描いた絵画が流行した」。
特定のアングルによって固定された絵画ならば、何をまとわずとも、例えば脚をクロスさせるなどの隠し方もある。しかし、彫刻なる3D表現となると、いささか話は変わってくる。隠れているからこそ、回り込んででも見たくなるというのが人情というもの。そして時に奇想天外な発明が飛び出す。
木の葉を隠すなら森に隠せならぬ、陰部を隠すなら木の葉で隠せ。
白井雨山『箭調べ』(1908年)。
「いったいどんな『奇跡』が起こって、木の葉は重力の法則に逆らい、地上に落ちないままでいるのだろうか」。
アダムとイブの、あのイチジクの葉ともどこか違う。誰の目にも、この股間には西洋芸術が培ってきた、コードという名の裸体ポルノ正当化の作法はない。黒田以降、日本におけるヌードのコードはその一切を警察が決める。樋口可南子をもってヘアヌードがなし崩しで解禁された際もそうだった。大人のおもちゃはフリーパス、でもろくでなし子はアウト。法をもって明確なラインが規定されるでもない、社会的コンセンサスなんてものは問われてすらいない、ただ単に警察が胸先三寸で何となく決める。それを象徴するように、駅前や公園でしばしば、全裸彫刻と交番が訳もなく同居する。文化の文法が介在する余地はそこにない。
その狭間を不意の霊感が突く。肉体を模倣するというリアリズムの追求に、一枚の木の葉が「奇跡」をもたらす。