地獄に落ちるわよ

 

 歴史的に「復興」の語は、アルカイックなものの復活という観念と結びついてきた。それは古代の復興、失われた伝統や様式の復興、すっかり衰えてしまった家計や生業の復興といった意味であった。だから、災害からの「復興」で巨大な防潮堤が築かれ、木造低層の家々が高層マンションに建て替えられ、地域の昔ながらの風景が失われてしまうことは、この語の原義からすれば完全な逸脱である。……

 本書のタイトル「東京復興ならず」には、二重の含意がある。第一に、それは戦後日本の「東京復興」が、文化首都を目指すものから「より速く、より高く、より強い」首都の実現へとひた走る成長主義的な路線に転換していった過程を具体的にたどっていくことになる。敗戦後、戦災復興計画が目指したのは、東京への一極集中化ではなく、より分散的な都市ネットワークのなかに大学街や娯楽街を配置し、緑と文化の首都を実現することだった。……このような文化首都としての東京を目指す考え方にとっては、「復興」は「経済成長」というよりも「文芸復興」に近かった。

 しかし、東京の未来についてのこの想像力は、やがて高度経済成長への奔流のなかで流産する。実際の東京は、敗戦後に構想されたとはまったく違う道をたどった。この転換を決定的にしたのは、もちろん1964年の東京五輪開催である。……

 経済成長路線を邁進した東京の戦後は、そもそもの「復興」とは根本的に異なる過程だった。これが、本書のもう一つの問いである。前述のように、「復興すること」と「成長し続けること」は水と油の関係にある。「復興」は、仮に部分的に「成長」のモメントを含んでいたとしても回帰的な過程であり、「成熟」に近い。……成熟としての「復興」という概念を、戦後東京はついに獲得しなかった。否、少なくともいまだ獲得できていない。

 

「健康で文化的な最低限度の生活」。

 この憲法条文における「文化」が指し示すもの、同時代のコンテクストに身を置き直すとき、そこに呼び覚まされる意味に虚をつかれる。

 終戦直後の読売新聞による以下の記事が典型的に表すだろう。「戦ひに敗れた日本の新しく生れ来る大きな指標は“文化日本”の建設である」。これからの日本は、軍事ではなく「文化」をもって世界に輝ける地位を目指す、国体を「文化」という耳障りのよいことばによって塗り固めた、急ごしらえの同工異曲にすぎなかった。喉元過ぎれば熱さを忘れる、ひとときこの「文化」に熱狂しただろう彼らは間もなく、技術の別なる活路としての「経済」への鞍替えを果たす。

 しかし世の中には、「文化」を別の側面から捉えていた人々もいた。この文言に寄与しただろう森戸辰夫も然り、そして例えば時の東大総長・南原繁や東京都都市計画課長・石川栄耀も然り。彼らが焼け野原に思い描いたのは「文化都市」としての東京とは、大学を中心に「市中には到る所広場あり、広場には彫刻あり、水辺は必ず緑であり、盛り場は、あげて路上祭であり市民クラブである」。

 もっとも現実で選び取られた「復興」の東京は、この「より愉しく、よりしなやかで、より末永い」東京ではなく、「より速く、より高く、より強い」東京だった。何にも増してその点は首都高速に象徴される。「文化都市」構想においてはオアシスのような位置づけを与えられていただろうウォーター・フロントは、そのことごとくが道路によって蓋をされ、あるいは埋め立てられた。

 この煽りは都電へと及ぶ。モータリゼーションの猛威にあって少なからぬ都民は思った、路面電車を一掃すれば自動車の流動性は確保される、と。しかし失ってはじめて人々はその価値に目覚める。そもそもの渋滞解消に何ら寄与することもなく、従って代替手段として導入されたはずのバスが時間通りに来ることもない、それ以上に重要だったのは、「その文化的なポテンシャル、あるいは人々のコミュニケーションの媒体としての価値だった」。都電とともに営まれていた何気ない日々の、何気ないコミュニティがそのベースを喪失する。

 

 あるいは、これらの「復興」により経済は残ったかもしれない、しかしもし、その経済すらも失われてしまったとしたら――

 過日、久方ぶりの日帰り遠出で人口5万の小都市を訪れる。

 マックにケンタ、スシロー、ジョナサン、すき家に王将――幹線道路を覆うのは、品評会かと見まがうばかりのファミレス、ファストフードのオールスター・キャスト。その街最高の就職先といえばおそらくは市役所、平成を通じて産業構造の転換や街づくりを果たせず、さりとて地域の独自性など何もない、モータリゼーションが生んだスプロールの黄昏、ただ朽ちゆくがままに任せ――たぶん住人の意識としては現状維持――、いくらかできるエンゲル係数の余白はそれら大型チェーンにさらわれて、緩やかに外へと汲み出されていく。余命数年、干からびて吸い取るものがなくなれば、寄生虫は新たな宿主に飛び移る。

 ファストを食らい、ファストをまとう、ファストな人々。おそらくは地方部を回った数だけ、同じ光景を目にすることになるだろう。入替可能、入替不要、もはやこの自治体は名前を持つ必要すらない。昭和の時代、他の例に漏れず、この土地もまた夢見ただろう、自らが東京もしくはトーキョーのミニチュアと化することを。あるいはその未来予想図は、止めどなき膨張を続ける東京に飲みこまれて、自らが東京の一部を形成するものだったかもしれない。そしてそのバブルは経済の収縮をもって、終止符を余儀なくされた。都市にもなれず、企業城下町にもなれず、まさか農村漁村にも戻れない。単に変わることができなかっただけの、成長に挫折した片田舎の哀れな末路としばし眺めてはっとする。移り住まされても私の神経は三日と持たないだろう、後進的な退廃漂うこのロードサイドは、むしろ先鋭的なまでに日本全土の行く末を先取りしているのではなかろうか、と。

「復興」ということばに「あるのは歴史を直線的な発展として捉える〔丹下健三的〕進歩主義的史観ではない。歴史は何らかのパターンの反復、ないしは循環なのであり、過去と現在、未来は螺旋を描くプロセスのなかにある。未来は過去のなかにあり、そのような過去は未来のなかに生き続けるのだ。もちろん、こうした歴史観は、そもそも『文化=耕作』[culturecultivateは語源を同じくする]という概念の根底にもあったもので、だからこそ失われた命は、文化のなかでこそ蘇ることができるのである。直線的な発展史観のなかでは、死者は永遠にこの世に戻れない。その先に広がるのは、果てしない虚無でしかなくなってしまう」。

 直線史観の夢破れた残骸としての地方、ファストという「虚無」をもって覆われた彼らにはもはや未来も過去もない。そして筆者の儚き願いとは裏腹に、既に東京にもない。