Romanticが止まらない

 

 

 訳者曰く、

 コートニーの母親は映画監督と浮名を流す女優で、父親はニューヨーク出版界では有名な編集者、本書「チョコレートで朝食を」(原題:Chocolates for Breakfast)は、16歳の美少女、コートニーがハリウッドとニューヨークの上流階級を舞台に、ちょっと背伸びした恋愛模様や友情、親との葛藤、徹夜で飲み明かすセレブなパーティーという日々の中で大人になっていく物語。……

 十代の女の子が大人の世界に足を踏み入れ始める特別な数年間には、時代を超える普遍性と魅力がある。十代の女の子たちの酒とパーティーの日々、ゲイやバイセクシュアルの男たち、アルコール依存、躁鬱病といった(当時は)タブーだった内容を(その頃としては)大胆に描き出した小説は、著者が現役の女子高生だった話題性もあって一大センセーションを巻き起こした。それはJ.D.サリンジャーが「ライ麦畑でつかまえて」を出した5年後、フランスでフランソワーズ・サガンが、「悲しみよこんにちは」でデビューした2年後のことで、ムーアは「サリンジャーの女の子版」「アメリカ版サガン」ともてはやされた。

 

 当方アラフォーのオッサン、お呼びでないにもほどがある招かれざる客であることくらいは百も承知でこの本を読む。

 その私が早々にこの小説にのめり込む余地を奪われた記述がある。

 それはチャプター3でのこと、コートニーは母に紹介された精神科医のもとを訪ねる。全寮制になじめずか、西海岸恋しさか、曰く、「わたしは朝起きるともう疲れてるんです」。

 問題と、少なくとも私が思うのはこのくだりの締めである。

 結局、鉄分の錠剤も効果はなかった。その後何週間たって夏休みが近づくにつれ、コートニーの眠気は増す一方だった。そもそもライスマン先生も錠剤が聞くと思っていたわけではない。その後ドクターは自宅の夕食の席で妻に言った。

「あの子の人生には楽しみが何もないんだ。目を覚ましている意味がない。眠ってばかりいるのも当然だよ」

 たぶん、この診断は正しいのだろう、少なくとも筆者はそう意図して描き出したに違いない。現に、コートニーはまるで満たされていない、それでいて、彼女はなぜに自分がひたすら眠ってしまうのかがまるで分からない。

 ところが、彼女にはまさか知る由もない精神科医プライヴェートを不用意にぶち込んでしまうことで、分からない、というこのティーンエイジャーの特質が、すべてぶち壊されてしまう。我が身を振り返ってもつくづく思う、分かっていないことが分かっていない、自らの狭い主観の箱庭に閉じ込められていることすら客観視できない、そんな十代の十代たる所以をこの小説は早々に放棄する。

 以後、私はコートニーに1ミリの共感もできぬまま、ページを繰ることを余儀なくされる。

 

 あるいは今日的なバイアスのかかった読み方なのかもしれないが、酒とパーティーに溺れることこそがイケていることと信じ込まされて、性を搾取され、キャリアからも脱落し、自身の未来をドブに捨てているようにしか見えない彼女の姿はひたすらに痛々しく映る。

 そこにもし感情移入の余地があれば、だってそれが楽しいのだからしょうがないよね、とでも思い、アホなことしてたなと自分の黒歴史でも時に重ねながら、一連の軌跡に訳者が言うところの「大人になっていく物語」を読み解くこともできていたのかもしれない。

 しかし、作者に突き放された私は、どこをどう読んでも「大人になっていく物語」と見ることはできない。「白いジャケット姿のイエール・ボーイたちが退屈しきった早口でしゃべる会話」が「いつも同じ話」でしかないことを見破れる程度には大人、ただし実のところ、そんな奴らに搾取されているに過ぎない自分を顧みることができない程度には子ども、この水準からコートニーはついに脱することがない。男たちによって未来をスポイルされ、腐り果てた無知な少女が辿った、あまりにフィクショナルな悲劇的クライマックスへの旅路という以外の何かをこのテキストから読み取ることができない。通過儀礼記号としての処女喪失の他に、彼女がいつ成長を遂げた瞬間を垣間見せてくれたというのだろうか。

 

 女優といっても母のキャリアは完全に斜陽、生活も苦しく、しかし彼女はその事実を直視しようとはしない。コートニーはそのことを既に知人から詳しく聞かされてもいて、小遣いをせびることもためらっていた。しかし、仕事の面接に出かけた母の「帰ってきたらお祝いよ」を真に受けて、親名義のつけ払いでシャンパンを注文してしまう。

 分かっているようでまるで分かっていないこの感じ、すごくうまい。母子をシンクロさせる構造も、すごくうまい。

 このニュアンスを全編に貫き通しながら、分かっていないということが少しだけ分かるようになっていく、無知の知の肖像としてのコートニーを造形できていたとすれば、この小説は紛れもなく後に広く読み継がれるだろう「大人になっていく物語」になれていただろうに。

 

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