「わたし」を話さないで

 

 私の名前はキャシー・H。いま31歳で、介護人をもう11年以上やっています。……

 ともあれ、自分が大層なものだなどと言うつもりはありません。わたしに劣らずいい仕事をしているのに、半分も評価してもらっていない介護人がたくさんいます。そういう人からすれば、わたしがアパートや車を持ち、介護する相手を選ばせてもらうなど、どれもきっと腹立たしいでしょう。それにヘールシャム出身だということも。ヘールシャムと聞いただけで、身構える人がいます。キャシー・H、あいつはいいさ、と言います。相手を選べるんだから。おまけに、選ぶときはいつも同類を選ぶ。ヘールシャムとか、ああいう特別な場所の出身者をな。……

 選べる機会があれば選ぶ。それも気心の知れた相手を選ぶ。当然のことだと思います。介護の一瞬一瞬、提供者に共感し、思いやることができなければ、どうしてこれほど長く勤められたでしょう。それに、相手を選ばなかったら、ヘールシャムから何年も経て、ルースとトミーに再会することもなかったわけですから。

 

「介護人」と言っても、通常のケアサービス従事者とは様子が違う。「提供者」がいったい何を提供するのかも容易に明かされることがない。「ヘールシャム」というのが養護施設の類であることは間もなく分かる、ただし何がそこを「特別な場所」にしているのかはあいまいなまま。

 こうしたミステリー要素を牽引力に話を進めていくことは何も珍しいことではない。ただし、本書の問題は、そうした基礎的な情報が単に関心の持続のために隠蔽されつつ運ばれることで、肝心の物語の展開が虫食い状に見えづらくなってしまっている点にある。「わたし」目線の現在進行形のビルドゥングスロマンならばそれでもいい、なぜなら欠けていた情報が補われていくプロセスそれ自体が主人公の成長に他ならないのだから。ところが本書は回顧録のかたちで進められる、つまり、語る存在としての「わたし」が語られる存在としての「わたし」を先取りする。この場合、両者の情報格差がそのまま現在の「わたし」と聞き手との情報格差として反映されるならばさしたるストレスはない、ところがヘールシャム時代の「わたし」が既に把握しているだろう前提すらもしばしば閉ざされたかたちで話は進んでいく、専ら興味を引きつけるためだけに。いみじくも「教わっているようで、教わっていない」、ただしそれは登場人物とは別の仕方で。ヘールシャムの「わたし」が当然に知っていることさえも隠された状態で、執拗なほのめかしを重ねるこの人物の感情の機微をどうして読み取ることができるというのだろう。

 この問題は単に技法をめぐる賛否に留まらない。「作品は作者を物語る、作者の内部をさらけ出す」、おそらくは本書のマニフェストを構成するだろう、ひどくありふれたこのことばを根本から破壊しているからこそ厄介なのだ。思い出すということは、過去の出来事それ自体にかかわる記憶作用ではなく、過去の出来事を思い出したという過去の出来事にかかわる入れ子状の記憶作用に他ならない。記憶はその都度書き換えられる。記憶が「わたし」を作り、「わたし」が記憶を作る。「わたし」が語るヘールシャムの「わたし」がヘールシャムの「わたし」でいられるはずがない。つまり、この回顧録は、現在の「わたし」が現在の「わたし」を語っている、なのにそのための前提条件を秘匿することで、「作品は作者を物語る、作者の内部をさらけ出す」というテーゼへの裏切りを重ね続ける。結果として、あるいは深い共感を誘うことができたかもしれない、「わたし」に待ち受けるだろう運命すらも、ギミックのためのギミック、フィクションのためのフィクションへと堕する。

 

 にもかかわらず、本書には忘れることのないだろうシーンがある。

「荒唐無稽なほどに派手な夢を語る生徒は一人もいませんでした。たとえば、映画スターになりたいなどとは誰も言わず、ほとんどが控え目に郵便配達やお百姓さんと言っていました。運転手希望の生徒もかなりいて、そんなときは運転の話を聞きつけた先輩が顔を突っ込んできて、これまでの運転経験をいろいろと話してくれました。あそこの道はとても風景がよいとか、あそこの道端にはこんな喫茶店がある、あそこのロータリーは回りにくいなど、ほんとうにさまざまな話がありました。わたしも、旅慣れたいまなら多少は大きな顔をしていろいろ言えるところですが、当時は一言も口をはさめず、ひたすら耳を傾けて、語られることの物珍しさに酔っていました」。

 希望とすらも言えないような希望の、このつつましさ、この痛々しさ。

 そもそもの希望さえなければ絶望することもない、それでもなお、希望すら知らないまま生涯を閉じるよりは絶望さえも幸福なのか、本書が突きつけるだろうこうした命題を小賢しいトリックが蹂躙していく。日本における下級国民論然り、アメリカにおけるブラック・ライヴズ・マター然り、通ずる気脈を宿し得たにもかかわらず、意図的に設えられたモザイクが何もかもを妨げていく。

 苛立ちに蝕まれながらあえて読み通したからこそ思う、はじめから隠す必要などひとつとしてなかったではないか、と。条件づけられた「わたし」をすべて暴露した上でなお、「教わっているようで、教わっていない」、それこそがまさに格差なるものの正体なのだから。