かなしみの詩

 

上京する文學 (ちくま文庫)

上京する文學 (ちくま文庫)

 

 

 近代都市・東京は、大正期の関東大震災、昭和期の空襲と東京オリンピック、そしてバブルと、幾度も破壊と再生が繰り返されてきた。いつ「東京」へ上京してきたか。それぞれの時代で見えた風景は違う。村上春樹五木寛之林芙美子と、異なった時代に上京してきた作家たちを、どんなふうに「東京」は迎えたか。本書では、答えを求めず、上京者および上京してくる主人公の心に寄り添いつつ描いた作品を読んでゆく。

 

 テレビという画一化装置が普及する以前、例えば山形出身の井上ひさしは、「東京ではおれは田舎者だ、だから訛のある言葉を笑われやしないか。訛ばかりではなく歩き方、坐り方、笑い方、すべて田舎風なのではないか」と恐れおののく。

 1952年、大学進学にあたり筑後より上京した五木寛之は、「博多駅から一駅一駅停車する鈍行列車をずっと乗り継いで、大阪で途中下車して、親戚のうちで一晩お世話になって、また大阪から東京へという鈍行列車の旅を」経てようやくたどり着く。

 上京が主題になる時代、LCCスマホもない時代、「時間的にも、精神的な距離感にしても、現代人が海外旅行をするよりも大変なことだっただろう」時代、言い換えれば、文学というスロー・メディアがメイン・カレントでいられた時代、いくらでも深掘りできる要素はあっただろうに、本書においてそれは遠くかなわない。

 ひとつ、そもそも企図に相当の無理がある。というのも、取り上げられる作家19人に対して割り振られた紙幅は本編トータルで300ページにも満たないときているのだから。

 しかし、それ以上に本書の論をピントのぼやけたものにしている最大の原因は、上京者を特徴づけるための比較対象としての在京者の視点が徹頭徹尾欠けている点にある。この欠落をカバーするためのヒントは、他ならぬテキスト中にいくらでも散りばめられている。例えば、「憧れの地」としての東京から見返すことで宮沢賢治は翻って花巻を「ユートピア」、イーハトーブへと書き換えた。例えば東京出身者、夏目漱石の『三四郎』を可能にしたのは「文明の最先端都市たるロンドンで感じた『驚き』」、ロンドンと東京の遠近法はそのまま、東京と熊本へとスライドされる。相対化のまなざしの重要性をほのめかす傍ら、その手法がテキストのコア・コンセプトとして活用される様子はない。

 結果として本書は、それぞれの作家についての、ひどく簡潔で模糊とした連続性なき感想文パッケージの域を出ることができない。その中で例えば石川啄木の人としてのアレっぷりなんて使い古された話を今さら聞かされてどう思えというのだろう。同じ時代の、同じ光景でも、上京者と在京者ではこれほどまでに捉え方が違う、そうした比較の感性を求めることは果たしてないものねだりなのだろうか。