業病

 

 

「すべての人間は生まれながらにして平等であり」という一節は、アメリカの広大な原野が孕む神との契約を定義する標語として、また海を隔てた希望のない多くの社会と自ら一線を画すために団結した国民の道徳律として幸運にも採用され、彼らを率いる推進者らによってアメリカという概念が華々しく披露された。それは、君主制と揺るぎない貴顕に支配された世界において、一個の近代共和国の成立そのものが、“社会移動”という見地に立った独立革命としてあることのどれほどかを証明するはずのヴィジョンだった。

 そのすべては、人を励ますだろう。とはいえ、地に足を踏みしめたときの“現実”は相当に異なっていたし、今も異なっている。これから検討するように、イギリスの植民地政策推進者は、それこそ寸分違わない言葉のもとで二重になった課題へと取り組んだ。ある者はイングランドにおける貧困の減少にかかり合い、他のものは職にあぶれた非産者を新世界に移送しようと声をあげたのである。入植後、辺境の植民地は非自由労働者(年季奉公人、奴隷、そして子供)を搾取し、こうした可処分階級を人類の不作として扱った。貧者であり無用者である彼らが途絶えることはなく、18世紀初頭には変わりようのない種族とまで見なされるようになった。落伍した人類を分別する道筋が、合衆国に定着したのである。大陸の誇らしい発展物語は、時代ごとに独特となる“無用者――望ましくもなく、また救いようもない人々――の分類学”を表した。その時代版のホワイト・トラッシュを主流となる理想像から遠ざける、その時代なりのやり方があったのだ。

 

 通常、アメリカ建国史として誇らしく語られるものといえば、例えばピルグリム・ファーザーズの崇高なる理念、例えばジョージ・ワシントントマス・ジェファーソンらの義憤にたぎる独立戦争

 しかし、そんな噴飯物の神話などせいぜいが上位「1パーセント」のエスタブリッシュメントのためのおためごかし、アメリカにおける真の「サイレント・マジョリティ」はひとつとして説明されない。ページを繰る度、もはや「ホワイト・トラッシュ」程度では何の動揺も呼ばないほどに刺激的な単語が並ぶこのテキストは、むしろ読者に今日へと至る合衆国の正史を教える。

 そもそもからしアメリカとは「無用物を扱う企業」に過ぎなかった。「退役軍人と罪人とをアメリカ送りにするひと手間だけで、犯罪と貧困を減ら」す。「あの大陸の開放された空席だらけの土地であれば、誰かが見事に成功を収めるかもしれない――確かに故郷に戻ったところで、人余りの労働市場には機会などまったくないのだから」。そんな目論見に関わらず、「のらくら者の国」で得られた暮らしと言えば、ある探検家曰く、「今まで目にした『貧困の中でも群を抜いてみじめないくつかの場面』……棲処はどんな人間の住宅よりも牛小屋に近い。一家は夜になると、干し草の山に潜り込んで眠った。……手に職があり、満足な土地と満足な四肢があるというのに、『沼地で速脚するアイルランド人』より悪い生活」でしかない。

 南北戦争とて、ホワイト・トラッシュなる視座を導入することで、その位相をがらりと変える。南軍系の論壇が上院にて大演説を打つ。「すべての社会には『下賤な務めを担い、日々の骨折り仕事をこなす階級がなくてはならない』。職能を欠き『知性の程度も低い』労働者階級が、文明国家の基礎をつくる」。続けてこの「土台」について彼は結論づける、「アフリカ系奴隷をこの低い身分に留め置くという南部の選択は正当である」、少なくとも「同じ血を分けたきょうだい」のホワイト・トラッシュを「土台」に据え置かんとする怪しからん北軍に比すれば。

 

 本書を通じて改めて確認させられる、たとえ多少なりとも病巣の腐敗を加速させたことはあったにせよ、グローバリズム新自由主義がホワイト・トラッシュやラスト・ベルトを作ったのでは断じてない、現代に固有の文脈とも見える数多のニュースとて、ブリーディングを重ねた果ての階級再生産のループを上演し続けているだけのこと。現代の読者は本書にトランプ支持者の肖像、プロトタイプを見るだろう――ただし事実はおそらく異なる、なぜなら彼らは選挙に行くことすら知らないのだから――、しかし、それしきの話は、400年にもわたって動員されては使い捨てられてきた彼らの変わらない日常のほんの一幕を垣間見るに過ぎない。

 何も知らない人々、そして同時に、誰からも知られることのない人々。1930年代の先行研究が既に示唆する。

「絶えることのないプア・ホワイトに特別な注意を払おうではないか。ともあれ問題は『彼らをどうすべきかが誰にもわからない』ことではなかった。『同胞であり、同じアメリカ人である彼らのありのままを知りたいとは誰も思わない』こと、それが問題だった」。