セロリ

 

転がる香港に苔は生えない (文春文庫)

転がる香港に苔は生えない (文春文庫)

 

 

 交換留学生としてかつて暮らしたその街に改めて舞い降りる。「返還まであと1年。そろそろ香港に戻る頃だろうと思った。……資本主義路線を歩みながら、国家としては社会主義の面子を絶対に捨てない中国。何よりも管理されることを嫌う香港。その二つが合体するという、世界で初めての実験に立ち向かおうとしているのだ。それを他人の口からお祭り騒ぎのニュースという形で聞かされるのだけは耐えられなかった。どうしても自分の肌で感じたかった」。

 

 それから23年、本書にも後に訪れた未来を窺わせるような記述はちらほらと見える。

 かつて日本に留学していた友人は、同胞への苛立ちを隠せない。

香港人は経済活動が自由だったから、自分たちは自由を知っている人間だと思っている。でも経済の自由と政治の自由の違いが全然わかっていないんだ。……中国は、香港人民がこれほど支配しやすい人たちだとは思っていなかったんじゃないから」。

 今日改めて時代の相を通じて眺める観察記録として優れたノンフィクションであることは当然に否定しない。がめつい、抜け目ない、えげつない……そのエピソードから浮かぶ形容詞はそのことごとくがネガティヴな響きを伴わずにはいない、ただし彼らは皆が皆、筆者をして「案外ハッピーだった」と言わしめる「記憶に残る天才」でもある。あるいはとうに喪失済みかも知れない、そんな香港気質のモニタリングとして読み解くことは、むしろ正統的なアプローチなのだろう。

 けれどもそれ以上に本書が傑出している点は、ふとした瞬間、その断片から鮮烈に浮き上がる叙事詩性にこそある。珠玉にあって一際きらめく、短編アンソロジー私小説の、たったワンシーン、ワンフレーズにあっさりと領されてしまう、あの感覚。

 

 スノッブがかった、ただしメイン客層は非西洋人という喫茶店でひとり日記を綴っていた筆者。そこにいかにも場違いなカップルが迷い込む。女が筆者に英語ができるか尋ねてくる。彼女が話すのは広東語ではなく普通語、対してオーストラリア華僑の男は広東語を少し解するだけ。女に依頼された翻訳は「私と結婚してほしい」。男の答えを筆者が媒介する。「30分前に友達の紹介で知り合ったばかりなんだ。答えられない」。「私には外国のパスポートがない。だからどうしても欲しいの」、そして筆者に懇願する、「こんなチャンス滅多にないのよ。お願いだから協力して」。押し問答の末、筆者は告げる。「私はこれ以上、彼に失礼をしたくない。こんなことを彼にいわなければならない自分が恥ずかしい」。落胆した女は席を立つ、男は追いかける、そして筆者は取り残される。

 たまらなく不快だった。最初は図々しくて自己中心的な彼女に対する苛立ちだった。それが、滅多にない移民のチャンスをモノにしようとしただけの素直な女性を、『恥』という言葉で辱めた自分の懐の狭さに対する嫌悪に変わっていくのを感じた。

 彼女は四十余年の人生の中で、今日初めて外国と接したのかもしれない。

 外国とはまったく縁のない工場で、来る日も来る日もティーバッグを作り続ける中年女。そこへ何の因果か、突然本物のパスポートを持ったアロハシャツの男が現れた。彼女が日頃抱いている閉塞感や焦燥感が、彼の胸ポケットめがけて爆発してしまったとしても、誰が彼女を笑えるだろう。

 

 そして運命の199771日が訪れる。人民解放軍の香港入城に臨む。「絶対に自分が立ち会ってじかに体験したい、と前から決めていた」。まるでタイミングを計ったかのように、突然の豪雨が襲う。ずぶ濡れの筆者の前に、ついに車列が通る。黒塗りの高級車、消防車、そして幌なしの軍用トラック。「人民は兵士の気を引こうと、必死に手を振り旗を振った。兵士は感情を乱さぬよう、わざと前だけを向いている。……/一度手を振ってしまった私は、たがが外れてしまったように手を振り続けていた。/自己矛盾に陥っていた。/人民解放軍が香港に駐留することには反対だった。/……沿道に一市民として立ち、しかも手など振ってしまったら、兵士の側から見たら歓迎する人民の一人に過ぎない。……/それでも手を振るのをやめない自分」。

 いい加減白状したらどうだろう。

 本当は人民解放軍が好きだったということを。