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西への出口 (新潮クレスト・ブックス)

西への出口 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 物語の舞台は、アラビア半島を思わせるどこか、とはいってもその特定作業がさしたる意味を持つことはおそらくない。なぜならば主人公カップルには携帯電話があったから、「電話のなかにはアンテナがあり、まるで魔法のように、まわりのいたるところにありながらどこにもない、目には見えない世界を嗅ぎつけてくれて、遠くの場所や近くの場所に、それまでもそれからも存在しない場所にふたりを連れて行ってくれ」る、そんなツールがあったから。

 だがしかし、「暴力の時代にはいつも、昔からの知り合いや親しい人たちの誰かが、暴力に触れられたとたん、かつては悪い夢だと思っていたものを腹をえぐるような現実として体験してしまう」。内戦下を生きる彼ら、間もなくテロ対策を名目に電波が絶たれ、そしてついには男の母が流れ弾に襲われて絶命する。ふたりは手を取り、「扉」の向こう、「西への出口」へ歩み出す。

 

 マジック・マッシュルームやマリファナによってもたらされるトリップですらなく、それはまるでzoomの壁紙を貼り換えるように。

 ふと「扉」を開けば、あるときはミコノス島の砂浜、ただしそこは多くの人種が入り組んだ難民キャンプ。次なる「扉」の向こうは、ロンドンの邸宅の一室、外では移民難民たちと排外主義者の衝突が繰り広げられる。そしてまた「扉」を開ける。サンフランシスコ近郊、家はトタンと板切れで自作、水の調達は雨を溜めて賄われる、にもかかわらず上空をドローンが行き交い、Wi-Fiが飛ぶ。

 女はあるとき自問する。彼らは「移動してきたことで何かを成し遂げたのだろうか、人々の顔と建物は変わってもふたりが直面する問題は基本的には変わっていないのではないか」。

 確かに変わっていない、ただし同時に変わってもいる。

 ノマドであることの荒廃、身体性をめぐる物語としての本書を解くキーワードは、彼女に与えられた初期設定で既に示唆され尽くしている

 彼女は「いつも、のど元のくぼみからつま先まで、流れるような黒いローブで身を包んでいた。そのころ、服装にも髪型にもそれなりの制約はもちろんあったとはいえ、人々はまだ好きなものを着ることができたため、その服装には何らかの意味があるはずだった」。

 プロット的な意味はある、意味しかない、覆い隠されるものとしての身体は単に他者からの視線の回避のみを指し示さない、だから彼らはペッティングは重ねどもついに性交渉には及ばない。つまり、今この世にあらざる命を文字通り生み出す営み、他者性の極致としての子どもはその余地すら与えられない。

「携帯電話には自分の周囲とは違うところへ連れていってくれるという独特の力があ」る。「扉」を開くほどに郷里を遠ざかる彼らは互いを「違うところ」へと隔て導く。

 

 はたと思い出したテキストがある。生井久美子『ゆびさきの宇宙』、盲ろうの研究者、福島智の伝記の一節、情報量をデジタルデータに落とし込むと、「音声情報は文字情報の2000倍、動画情報は5万倍……それは、『健常者の状態から全盲の状態』への落差が5万と2000で『25分の1』なのに対して、『全盲の状態から盲ろう者の状態』への落差は『2000分の1』なので、この落差は、前者の80倍も大きいことになる」。かなり怪しいロジックで言い換えれば、視覚聴覚優位で把握される現象としての世界から今日のスマホPCで表示可能な音声映像、「動画情報」を差し引いたときに残るデータ、すなわち液晶の内と外との誤差はほんの5万分の1に過ぎない。

 にもかかわらず、それゆえにこそ、彼らは耐えがたく引き離される。

 5万分の1が含むだろう何か、例えば匂い、他なるものの触発としての匂い。

 女が件の一室でシャワーを浴びる。ロンドンで訪れた数か月ぶりの至福の時から一瞬にして彼女を現実に引き戻したのは衣服に染みついた臭気だった。一方で、仕事帰りの男はいつしかくつろぎの隠れ家を見つける。同胞が身を寄せるその場所には「慣れ親しんだ言葉や訛り、慣れ親しんだ料理の匂い」があった。

 もう一冊、読みかけで放り出したままの二階堂奥歯『八本脚の蝶』、自己所有の宿痾に疲れ果てた彼女は、メイクとりわけ香水への固執を見せる、それはあたかも、「ああ、わたしの子の香りは/主が祝福された野の香りのようだ」(創世記2727節)、 エサウになりすましてイサクを欺くヤコブのひそみをなぞるように。退屈なカタログスペックを羅列する彼女自身の身体にまとわれただろうフレーヴァーは、その痕跡を断ち切るように振りかけられただろうにもかかわらず、ノート通りの香りとは別の何か。

八本脚の蝶 (河出文庫)

八本脚の蝶 (河出文庫)

 

 

「綺麗なものたくさん見られた。しあわせ。

 そろそろこの世界をはなれよう」。

 自死を選んだ筆者によって意味への接続可能性を喪失した断章の羅列としての『八本脚の蝶』、対して、歴史の文脈によって意味を新たに構成された小説としての『西への出口』。

 本書の試みのすべてがうまく運んでいるとは思わない。けれども、コロナで閉じた「扉」の内側だからこそ真価が生まれた。それは予言ではなく、歴史の文脈によって作られた。