My Sweet Home

 

クサヴァー 十六年以上、作家と国語教師は恋人どうしだ。友人たちの目には、理想の恋人そのもののように映っている。……

マティルダ ふたりの幸せは、互いへの依存の上に成り立っている。作家はそもそも生きるために、つまり経済的な意味で、国語教師を必要としている。なぜなら、家計の大半を担っているのは、国語教師のほうだから。そして国語教師のほうもやはり、生きるために作家を必要としている。感情的な意味で。なぜなら彼女は、作家を死ぬほど愛している。……

クサヴァー とある出版社が三部作を買ってくれて、無名の作家は一晩で誰もが知る有名作家になり、成功を手にする。

マティルダ こうして依存のバランスが崩れ、作家はある朝、別れを告げることもなしに、国語教師を捨てて出て行く。国語教師はその後、作家がセレブなホテル王の娘と結婚したこと、その女性が妊娠していることを知って、ひどく精神を病む。

クサヴァー 作家は別の女に恋をして、また少なくとも恋をしたと思い込んで、国語教師を捨てる。作家はその後一生、そのことを後悔することになる。新しい女との幸せはつかの間のものだ。一歳半の息子ヤーコプが誘拐されたきり、行方不明になるからだ。妻がこの悲劇から立ち直れないせいで、結婚生活は破綻する。作家がその後書く小説も成功しない。……何年もたって、すでに五十歳を過ぎたころ、母親が死に、作家は新しい人生を始めるチャンスだと思って、母が残した家へ移り住む。家の回収を始め、ようやくまた新しい小説に取り組み始める。だが、作家は幸せではない。ぼんやりと過去の思い出と人生の意味とに思いを馳せるばかりだ。

 

 そんなある日のこと、「作家」ことクサヴァー・ザントと「国語教師」ことマティルダ・カミンスキが、16年ぶりの再会を果たす。きっかけは、ティロル州のいくつかの高校で開かれることになった文芸創作のワークショップ、何たる天の配剤か、かつての糟糠の妻の勤務校に元夫が担当講師として派遣されることとなった。

 機は熟した、彼らは互いに構想していた物語を明かしはじめる、ちょうど蜜月期をなぞり直すように。

 

 マティルダにとって、「住まいは自分の第二の皮膚」だった。あるいは「家と土地とは、〔クサヴァーの〕母にとって人生の意味そのものだった」。

 この小説のテーマは、まさしく「住まい」。

 はて不動産小説なるジャンルがあるのだろうか、と思わず検索をかけてしまう。あるにはあるらしい、もっともマンガを含めてそれらのことごとくは専ら不動産屋を舞台とした職業ものという程度の意味らしく――というか、項目を作成した人間にとっての定義がそうなのだろう――、例えば空模様や食事がしばしば演出のツールとして操られるのと同じ仕方で、取り扱う物件それ自体が何かを語り出すというような気配はその顔ぶれからはどうやら漂ってはこない。

「住まい」それ自体が登場人物の内面のメタファーを示唆する。この条件にあてはまりそうなテキストを本棚に視線を走らせシークしてみる。例えば漱石の『門』、主人公夫婦が居を構える立地は「すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからは尤も隔たっているだけに、まあ幾分か閑静だろうというので、細君と相談の上、とくに其所を択んだのである」。『こころ』の先生が鎌倉逗留の拠点とするのは、「普通の旅館と違って、広い寺の境内にある別荘のような建物」。なぜすぐに連想できなかったのだろう、『パルムの僧院』にて訴訟を控えたファブリスは幽閉されるべく、「ファルネーゼ塔に通じる三百八十段の階段を上っていた。この塔は基塔の平屋根の上に、さらに恐ろしい高さに建てられた新しい牢獄である」。もっとも生死の境にあるはずの当の彼は、地上の喧噪など目をくれようともしない、「ファブリスは完全に自分の不幸を忘れていた」、なぜならば彼にはクレリアの「あの美しい眼」の他には何もなかったから。このモチーフの系譜をたどれば、バベルの塔だし、『ラプンツェル』だし、例えば『シンデレラ』にしても宮殿の階段をガラスの靴で駆け降りるところからスリルやロマンスが生まれるわけだし、あるいは中上健次枯木灘』の事実上のメイン・キャストといえば路地だし、大江健三郎においては「谷間の村」だし、と冷静になってみれば何のことはない、大道具としてこの装置のエフェクトを存分に活用した不動産小説なんて山のようにあることに思い至る。

 Form follows functionはキャラクター造形にも適応される。

 

 従って本作のあらましは、すべて「住まい」をめぐる描写の引用をもって代えることとする。

 

 大学を出たマティルダとクサヴァーがウィーンにて新たに暮らすことに決めたのは「明るくて住み心地のよさそうな住居」、「大きな部屋が三つと、現代的なキッチン、それに住居の南側と西側にぐるりと巡らされた広々としたバルコニー」。そして何より彼女にとって「子供時代と思春期を過ごした暗くて狭い住居を思い出すのは、なによりも嫌だった」。やがて月日は流れ、そこもいつしか「小市民的な国語教師と一緒に、アパートの五階にある古びた三部屋の住居に暮らす生活」の象徴と化し、著名人へと成り上がった彼が何も告げぬまま彼女を捨てて向かった先といえば、ホテル王の娘。そうして残された彼女が後に彼をめぐって真っ先に思い出す光景といえば、やはりその日の「半分だけ完全に空っぽになった部屋」。

 そんな彼女が育ったのは、リンツの「社会福祉団地の狭苦しい賃貸住宅」、部屋といっても「カーテンで間に合わせに仕切ったちっぽけ」なもの。そんな彼女がひょんなことから預けられたのは母の実家の農場、「牧草地の緑と静けさと広さ、そして香り」に包まれた「そこはまさに天国だった」。

 その「天国」に伯母が遺した家に彼女はひとり移り住む。「部屋はどれもすごく広くて明るくて……それに内装の趣味もいい」その物件の何よりの特徴といえば、「地下室と待避壕」。「地下にあるっていうだけで、ちゃんとした住まいなの。玄関に、リビングキッチン、寝室、バスルーム、それに完璧な照明システム」。もっともそのご自慢のスペースを「明日見せるわ」と言ってはみるが、彼女はその「明日」をどこまでも留保し続ける。

 栄光と挫折を味わった彼もまた、都市を離れて、「母と祖父にとって人生のすべてだった家、若いころの僕が『巨大な石の要塞』と呼んだ家、子供のころから居心地が悪くて、いつも凍えていて、三十三年間、二晩以上続けて泊まったことのない家」をリノベして住まうようになる。「子供時代の家を思い出させるものは、どんなささいなものも残したくないんだ!」そう語る彼は、にもかかわらず小説家としての再起を期して、その家を建てた祖父をめぐるファミリー・ヒストリーを綴る。祖父は一度はオーストリアを捨ててアメリカに渡るも、第一次世界大戦の惨禍を聞きつけフィアンセを残し祖国へ戻り、新大陸での蓄えをすべてこの靴工場兼御殿へと注ぎ込んだ。

 

 この小説が、ここまで不動産に執着するのには物語上の必然がある。

 つまり、マティルダとクサヴァーが彷徨の末、互いの「住まいHeim」を再発見するまでの物語、もっと言えば物語そのものが彼らにとっての「住まい」に他ならないことを確かめるプロセスなのだから。

 あるいは、その近くて遠い「住まい」ということで言えば、この表題Die Deutschlehrerinからしてどこか奇妙な響きを孕まずにはいない。ハプスブルク家神聖ローマ帝国の崩壊、ヨーロッパ近代革命といった時代の波に翻弄されて、やがてドイツ連邦に背を向けて袂を分かつ、そんな歴史に思いを馳せるとき、あるいは彼らオーストリア人にとってドイツ語とは「国語」であって、「国語」でない。ベルリンでの日々と訣別し、心機一転ルーツでの立て直しを図るクサヴァーの行動原理はおそらくこのことと無縁ではない。本書におけるターニング・ポイントとしての第一次大戦のはじまりも、サラエボにてこの国の皇太子が討たれたことに端を発する。直接に言及されることはなくとも、オーストリア生まれのアドルフは、当然に両国の統一を求めずにはいられなかった。

「住まい」とは何かをめぐってさまよい続ける、「国語」を求め探し続けるふたりをめぐって描かれる本書は、そんなオーストリアの歴史をもトレースしているのかもしれない。

 

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