マイケル・ブルームバーグ市長のもと夢中で駆け抜けた6年間。この間に私たちは、従来の街路のあり方がほぼ全て間違いだったことを、ニューヨーク市に、アメリカに、そして世界に証明した。慎重な検討の上、街路の車線数を減らしたり、ときには全車線を封鎖したりすることで、歩行者空間をつくり、沿道に新たなにぎわいを生むだけでなく、かえって交通問題を解決することが実体験を通して明らかとなった。また、街路の一部を塗装し、広場や自転車レーンやバスレーンにするという単純な操作でも、街路を安全にするだけでなく、交通問題を改善し、サイクリストや歩行者の数を増やし、地域経済の繁栄に寄与することを示したのである。
ニューヨークの交通網は、1か所も住宅地域を更地にすることなく、そして1棟も建物を破壊することなく再生された。路面電車やLRTの新設、経年劣化した道路や橋の修復と架け替えに、アメリカの各都市が毎年何十億ドルもの資本をつぎこんできたのと比較して、信じられないほど安価に済んだのである。また、整備に時間がかからなかったのも特徴だ。塗料、プランター、照明、標識、信号、余った石材などを使い、ほとんどDIYで済むような戦術で、数日や数週間のうちに実装できた。たった一夜にして、何世紀も使われていた道路が、日常の風景の中にずっと潜んでいた歩行者のオアシスへと変貌を遂げたのである。
日本の、あるいは世界の都市圏の重要テーマのひとつが道路の渋滞、そしてその解決策として一般に提言されるものといえば、車線の増設や迂回路の新設。
しかし、こんなものが何らの処方箋にもならないことは既に実証的に示されている。「多くの主要道路の拡張事業は比例して交通量の増加をもたらしている」に過ぎない。何のことはない、「交通渋滞が発生するのは、道路の供給が不足しているためではない。自動車に替わる交通手段を持たないがゆえに、車を運転する人が多すぎるためだ。渋滞は超過需要の産物なのだ。道路の供給を増やしたとしても、交通量が減少することはない。ほとんどの場合、より多くの人に自動車を運転する機会を与えてしまうのだ」。
正当な解決策は、「新たな道路を建設するのではなく、新たな交通手段を構築」すること、つまり、「電車、バス、自転車、そしてより良い街路[徒歩]のために投資」することの他にない。
非モータリゼーション化のもたらすインセンティヴは計り知れない。
例えばゼロ炭素社会実現の地歩として。「ニューヨーク市民1人当たりの二酸化炭素排出量は、全米平均より71%低い数値だ。その理由は、垂直方向の移動は多くても自動車を運転する必要がほとんどないため、そして財とサービスが都市部に集中するというスケールメリットがあるためである」。
あるいは、Go To 商店街の決定版として。筆者の改革の先鞭をつけた「ブルックリンのパール通りでは、5年間で172%の売り上げ増があった。その爆発的な成長は、今日現地を訪れてみれば明らかだ。駐車帯だった三角形の区画は、現在、プラザでコーヒーを飲んだり、ランチをする就業者や住民でにぎわっている」。「構造分離型自転車レーンを設置したマンハッタンの9番街では、総利用者の致傷率が58%減少し、かつ、23~31丁目間の小売店売上が49%増加した。マンハッタン区全体では、小売業の経済成長率はたった3%であるにも関わらずだ」。バス専用レーンを設置したストリートでも、沿線の「中小事業者の売上は71%伸びた」。
これらの施策の皺寄せを自動車ユーザーが吸収しているにすぎない、との反論も当然に出るだろう、ところが現実には、「まちの交通管制技術を刷新した結果、ミッドタウンでの供用開始から1年後の2012年には、交通流が2008年時点よりも10%円滑化した」。いくら強調しても強調し足りない、これらは自動車に供される道路を増やした結果ではない、逆に減らした結果だ。
過日、本書を受けて東京の街中を自転車で走る、あえてメイン・ストリートを選ぶ、トータル3,40キロにはなっただろう。
自転車レーン、とは言ってもほとんどの場合、それは路側帯のどうってことのない落書きの類、土建屋に小遣いを割り振るための口実でしかない。右折車両が邪魔だとなれば切れ込むことなど厭わない。何の権利があってか知らないが、中央車線ではなく路肩に堂々止められた自動車によるデメリットを引かされるのはなぜか専ら自転車の側。大げさに膨らんで――つまり、はじめから右側レーンはがら空きだ――あなたの安全を確保していますよ、と我が物顔で追い抜いていく車はどう見てもほとんどの場合、法定速度を超えている、もう数百メートルも行けば信号でつかえるというのに。ルールとして認知されていない結果だろう、自転車も自転車で平然と逆走をかましてくる。目的地に着いたら着いたであちこちで駐輪禁止の立て看板だらけ、にもかかわらず駐輪場が用意されているわけでもない。
理不尽な貧乏くじを引かされている感、幾度ため息をつかされただろう。はたと気づく、私たちドライバーはこれだけ妥協しているのです、もう十分でしょう、この言い草、差別の構造そのものだと。
宇沢弘文が『自動車の社会的費用』を著して半世紀、この文明の利器によってもたらされたスプロール化の最悪のリスクは、先の大統領選における投票行動をもって改めて可視化された。物理的な分断は精神的な分断をもたらす、言い換えれば、精神的な凝集は物理的な凝集によって作られる、それはちょうどかつてジェーン・ジェイコブズが描き出したように。
すべて人間は社会と動物生理の関数を超えない、翻って、演算操作可能な存在でしかないことの幸福がここにある。幸福な暮らしを享受したければ、幸福な街路をデザインすればいい。車を捨てよ、町へ出よう。