Globe Theatre

 

 

 1590年代初頭に劇作をはじめてからそのキャリアを終えるまで、シェイクスピアは、どうにも納得のいかない問題に繰り返し取り組んできた。

 ――なぜ国全体が暴君の手に落ちてしまうなどということがありえるのか? ……

 一見堅固で難攻不落に思える国の重要な仕組みが、どのような状況下で不意に脆くなってしまうのかと、シェイクスピアは考えた。なぜ大勢の人々が、嘘とわかっていながら騙されるのか? なぜリチャード三世やマクベスのような人物が王座にのぼるのか?

 そんなひどい事態は、広範囲に亘る共謀がなければ起こるはずがないと、シェイクスピアは示唆する。国民がその理想を捨て、自分たちの利益さえも諦める心理の働きを、シェイクスピアの劇は探っている。なぜ、明らかに統治者としてふさわしくない指導者、危険なまでに衝動的で、邪悪なまでに狡猾で、真実を踏みにじるような人物に心惹かれてしまうのか――シェイクスピアは考えた。……

 そのように屈することの悲劇的代償をシェイクスピアは何度も描いている――道徳は崩壊し、多くの財産が潰え、人が死ぬ――そして、傷ついた国家がわずかでも健康を取り戻すためには、苦しい必死の英雄的な努力が必要となる。手遅れにならないうちに、恣意的無法政治へ陥るのをとどめる方法はないものかと、シェイクスピアの劇は問いかける。暴君が必ず惹き起こす国民の破滅を防ぐ効果的手段はないものかと。

 

 このご時世に『暴君』を冠したテキストが出版される。となれば、一般にその表題から想起されるだろう内容と言えば、いかにもネット記事等にありそうな、こんなにあった、〇〇と△△の共通点、シェイクスピア版、といったところか。

 しかし、『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』を物したこの筆者に限ってはそのような愚は侵さない。というか、そもそものシェイクスピアのアプローチそれ自体が、その手の安直へと陥りづらい安全弁を提供している。周知の通り、彼は「当時のイングランドを舞台にしたいわゆる『市民喜劇』は決して書かず、ごくわずかな例外を除いて、当時の出来事から安全な距離を置いた。……歴史的事件を描くときには、古代ギリシャ古代ローマ、先史時代のブリテン、あるいは祖父の祖父より前の時代のイングランドに設定した」。春日太一に倣って時代劇を新劇ならざるもの全般として規定するならば、この吟遊詩人は疑いようもなく時代劇の名手だった。「斜にかまえて」あえて今ここならざる場所u-topiaを描いたその演劇は、にもかかわらず、同時代人にさぞや響いたに違いない。なぜにそのテーマが選択されねばならなかったのか、なぜにそのセリフが発せられねばならなかったのか、そのいちいちが脚本家と観客の今ここをめぐる共犯関係へと誘う、あからさまに今ここを語らぬがゆえにこそなおいっそう。

 グリーンブラットが本書において試みたのも、まずはその同時代性を復元し、現代の読者へと差し出すことだった。早々に息を呑む、なにせ「王や王妃ないしは主たる公僕の死を『企てたり想像したり』することは謀叛であるとされていた」その時代、「もし現代の設定で上演されたら即座に検閲官の激怒を買って犯罪者として処刑されたかもしれなかった」、そう聞くだけで悠久の古典群に背筋そばだつ緊張が走る。たちまち身体への切迫でキャラクターは命を吹き込まれる。そうしてやがて気づくだろう、現代ならざるユートピアとして中世の作品世界へと誘う筆者の企みは、否応なしに、シェイクスピア時代劇と同時代人との関係との相似形を結ばずにはいないことを。

 

 暴君がひとまずの高みを極めた先に何が待ち受けるか。

「ああ、俺はむしろ自分が憎い」。

 リチャード三世のこの独白に凝縮される。「暴君の心を覗きこんでみると、そこには実は何もなく、成長もしなければ輝くこともない自己の縮こまった痕跡だけがあるかのようである」。

 すべて暴君についての洞察などもとより深めようもない、なぜなら「そこには実は何もな」いのだから、それこそが暴君の暴君たる所以なのだから。

「リチャードがのしあがれるのは、まわりの連中とさまざまなレベルの共犯関係があるためだ。しかし、劇場では、不思議な共同作業に誘い込まれるのは、すべてを見守っている我々観客なのだ。私たちは、悪党のとんでもない行動に何度も魅了され、普通の人間としての節度などどうでもいいとする態度に魅せられ、誰も信じていないときでさえ効果があるように思える嘘を楽しんでしまう。舞台上から我々のほうを見ながら、リチャードは、そのうれしそうな軽蔑を観客も一緒に味わうように誘うのだが、同時に、おぞましいとわかっている立場に立つことがどういうことか、自分でも経験してみるように誘っているのである」。

 ここに至って、見る-見られるが反転する。空虚であればあるほどに、今ここに座する大衆のお気に召すままが濁り気なしに体現されよう。暴君は実に名優の別言に他ならない。いついかなるときも需要は供給に先立つ。あるいは、不世出の大脚本家を不世出たらしめるその素因とてまた同じ、何せ「シェイクスピアは、劇場の実入りや不動産投資や、商品売買や、時折のちょっとした金貸しによって、裕福になろうとしている途中だったのだ」。見たいものだけを見せる、彼の名声がビジネスの真髄たるこの一点に収斂したとして果たしてどこに驚きがあるだろう。

 すべて観客は舞台に鏡を見る、読者はテキストに鏡を見る。政治型劇場もとい劇場型政治はかくしてめでたく成就する。