ストレイ・シープ

 

 はじめまして。精神保健福祉士社会福祉士の斉藤章佳です。

 東京・大田区にある大森榎本クリニックで、さまざまな依存症、特に加害行為を繰り返すタイプの依存症の臨床に長年携わっています。お店のものを盗むのを辞められず、その行為に耽溺してしまう「万引き依存症」もそのひとつです。

 これから一冊を費やして、毎日のように盗む人の実態、被害のリアル、そこから家族とともに回復するための道すじをお話します。

「はじめての万引き」を止めることは、私たちにはできません。ですが、常習化し、万引き依存症になった人を「盗んでしまう自分」から「盗まない自分」に変えるスキルを共に学ぶことはできます。(中略)

 人が万引きをはじめる背景には何があるのか、なぜやめられなくなるのか、どれだけの被害を生んでいるのか、どのようにすれば止められるのか。

 それらを考えるなかで、日本人が現代社会で抱えているさまざまな問題……ストレスや性別役割分業、超高齢化社会、親子関係の問題から起きる摂食障害などが見えてきました。

 万引き依存症は現代人だからこそ陥る病理であり、だからこそ、誰ひとりとして「自分は絶対にならない」とは言えません。

 

 本書を手に取った者の脳裏に必ずや焼きつかずにはいない。あまりに強烈で、そして悲劇的なサンプルをまずは引くことからはじめよう。

 そのクライアント「Aさんは20年以上ずっと万引きを続けてきました。彼女が万引きをしていることを、夫も娘も知っていました。(中略)

 5回目の逮捕ののち、裁判で執行猶予判決が出たのを機に、私たちのクリニックを受診しました。治療態度は非常に真面目で、万引きも止まりました。

 そうこうしているうちに、娘の結婚が決まり、披露宴を行うことになりました。(中略)

 当日、披露宴会場に向かう途中、たまたまあいた待ち時間でAさんはスーパーに立ち寄り、万引きをしてしまいました。着替えなどが入った大きなバッグに、芳香剤や歯ブラシを入れ、レジを通らずにお店を出たところを、Gメンによって捕捉されました。(中略)そのまま警察を呼ばれて逮捕され、披露宴会場に向かうことはできませんでした。(中略)

 その日の主役である花嫁、つまりAさんの娘はいくら待っても母親が会場に来ないことから、すべてを察しました」。

 娘との不和から晴れ舞台をぶち壊してやりたくて、顔に泥を塗るべく、あえてこのような愚行に及んだわけではない。「やめたくても、やめられない」、Aさんにとってのトリガーは、大きなバッグだった。「不思議なことに、大きなバッグがなければ盗まないのです。(中略)外出時は小さいバッグか中身が見える透明なバッグしか持ち歩かない、というの彼女のコーピングになっていました」。まさか予め盗む腹つもりで用意したわけではない、単に必要だったから、ただそれだけで何気なく手にしたバッグによってまるで催眠術にでもかけられて促されたかのように、彼女は犯行に及んだ。

 

「やめたくても、やめられない」このスイッチを入れなければ、あるいは万引きに手を染める必要もない。例えばPさんの場合、クリニック通いを契機に店に近づくことをやめた。日常の買いものは、割高にはなるものの、すべてネット宅配や通販で済ますようにした。会計の済んでいない商品に手を触れるそもそものきっかけすら与えられないのだから、抑止という点ではある意味これほどまでに実践的な解決策もない。

 そうこうして半年が経った頃のある日のこと、食事の支度をする彼女は調味料を切らしていることに気づく。宅配では間に合わない、すぐ終わるから大丈夫、そう言い聞かせて家を出た彼女は、案の定というべきかスーパーで万引きをしてしまう。

 ただし、と筆者は注意を促す、単にこのPさんにとってのトリガーは、スーパーに出かけるというその行為では必ずしもないということに。彼女が行為に至る契機は、決まってパワハラじみた夫の仕打ちだった。その前日にもやはり夫からの高圧的な態度にストレスをためていた。未必の故意というべきか、彼女はいわば自分がスーパーに行けば万引きをこらえることができないことを分かった上であえて足を運び、そして「やめたくても、やめられない」スイッチがオンになるがままに委ねてしまった。

 

 例えばカウンセリングを通じて、こうしたトリガーを読み解いて、フラグをコントロールすればいいではないか、ともシンプルに話が運ばないことが万引き依存症をはなはだ複雑化させる。

 本書で頻出する格言に、「泥棒は、嘘つきのはじまり」というものがある。通院者たちは、もはや痛々しいまでに自己正当化のための方便をひねり出すことをやめない。曰く、「たくさん買っているんだから、ちょっとくらいは盗っていいだろう」「このお店は死角が多いレイアウトだから、盗ってしまう」「もっとひどい万引きをやっている人もいるし、私が盗むくらいはたいしたことない」and so on。こうした「認知の歪み」の持ち主が万引きへと走るのか、はたまた万引きが「認知の歪み」を引き起こすのか、筆者は断言する、あくまで後者である、と。

 その場しのぎの逆ギレじみた弁明に基づいて猛省と自覚を促したところで、彼らは決して「やめたくても、やめられない」その衝動から足を洗うことなどできやしない。

 

 では治癒に向かっていくためには何が必要なのか。

「依存症を治療する現場に長年携わってきて、私は、依存症の問題をたどっていくと必ず人間関係に行き当たると考えるようになりました」。摂食障害は別として、こと万引き依存においては、ほとんどの場合において盗品はただのマクガフィンにすぎない。真の目的はあくまで別にある。

「人は、伝えたい相手がいないときに万引きをしません。身近にいないにしても、誰かに自分のSOSを伝えたくて万引きを通して発信します。依存症の人は、無意識レベルで誰も見ていない、誰も捕まえない、誰にも何も届かないところでは盗みません。人間関係のなかで進行していく病です。だからこそ、人間関係のなかで回復していく病でもあります」。

 筆者のクリニックが提供するアプローチは極めて明快なものである。いかに症例を観察してきた専門家といっても所詮赤の他人には分かりようもない何かがある、同様のアディクションを共有する者同士でなければ分からない何かがある。いわば、依存の対象を万引きからその共感のコミュニティへと書き換える。

「同じ万引き依存症の問題をもつ仲間と一緒に、認知行動療法と呼ばれるアプローチで『盗まない自分』に変わっていきます」。薬物依存も同じ、性的依存も同じ、当事者が寄り合い支え合う、その新たな「人間関係」の輪だけが彼らを癒すことができる。仲間を裏切りたくない、その感情がある日「認知の歪み」への気づきを生み出す。

「万引き依存症のまっただ中にいるとき、人は万引きが止まらない自分を否定します。自己受容からはもっとも遠い自己否定の状態です。そんなときほど万引きすることに固執します。(中略)

 自分で自分を受け入れ、仲間のなかで正直に自分をさらけ出し、受け入れられる。その体験を何度も重ねるなかで、自己受容する力が育まれます。そうなれば、きっと盗む必要はなくなります」。

 自分という牢獄を解き放たれて、他者へと向けて己を投げ出す、忘我のその瞬間にはじめて「自己受容」は萌芽する。

 

 各種の国際的なリサーチにおいて、世代を問わず日本人の自己肯定感が群を抜いて低い理由も万引き依存症と限りなく軌を一にする。コミュニティを持たない者、安全基地を持たない者に肯定すべき自己などはじめからない。

 絆などいう単語は、そもそもにおいては動物を縛りつけるための拘束具という以上の意味を持たない。腐り切った人間関係の輪の中で、出る杭を互いに打ち合うダンピング競争に明け暮れる、そんな絶望の淵でいくら自己啓発書(笑)を読み漁ったところで何が変わることもない。

 シンパシーとは、共に苦しむことをその語源に持つ。自律だ、自己責任だというおとぎ話をもって日々自壊していく世界の中で、名もなき者同士が集う場でふと共感の風景がよぎる、自分がひとりではないことを知る、街中では決してお目にかかれることのないそんな美しい光景が、なぜだろう病の現場にはふと降臨する。

 トリガーに対してスクリプト的な反射を繰り返すことに終止する他ない哀れな動物でしかないことを知る、知性なきサルの代名詞、meyouという虚妄を解体して、所詮計算可能で計算不要なone of themでしかないことを知る、その瞬間にすべてが変わる、人ははじめて人になる。

 腐敗臭を放つドブの別言に過ぎない世のすべての有害無益な絆ではなく、淡く澄んだ限りなく無味無臭の清水のみが人に洗礼の生まれ変わりを授けることができる。

 

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