ブルックリン

 

 

 20世紀の終焉にあたり、市民的な不調感が米国人一般に共有されていた。経済の見通しはまず満足のいくものであり、それは空前の期間にわたる拡大の結果として特に驚くべきものではなかった。しかしながら、道徳的に、また文化的に正しい道を進んでいるのかについて、人々は同様の確信があったわけではなかった。ベビーブーマーを対象にした1987年の調査によれば、自分たちの親の世代の方が、より「意識の高い市民であり、コミュニティにおいて他者を助けることに関わっていた」と考えるものが53%を占めており、自らの世代の方がより優れているとしたものは21%にすぎなかった。優に77%の者が「コミュニティ活動への関与が減った」ことにより国が悪くなっていると答えたのである。……

 米国におけるコミュニティの結束が、過去の歴史を通じて一貫して低下してきた、あるいはこの100年間にわたってはそうであった、というのは、筆者の見方とは全く異なっている。それとは逆に、米国史を注意深く検討すると、それは市民参加の上昇下降の繰り返しであって単なる一方的低下ではなく、言い換えれば崩壊と再生の歴史であることがわかる。……米国におけるコミュニティの結束は次第に強まっていたのであって弱まっていたのではなかったことを、今生きている人々は憶えているし、そしてまた本書の最終部で示すように、この数十年の低下を逆転させるための力はわれわれの内に存在するのである。

 

 情けは人のためならず。

 この浩瀚なる大著を要約するに、ある面ではこの一言で足りる。

 筆者が危惧を抱く通り、そのテイストはどこかold, but good daysへの郷愁を孕まずにはいない。だが仕方がない、政治集会への参加や教会でのチャリティ活動から職場への帰属心、ボーイスカウトの組織率、果ては隣人とポーカー卓を囲む頻度に至るまで、その広範な指標のことごとくが単調なまでに同一の結論を示唆せずにはいないのだから、すなわち、アメリカ全土における「社会関係資本」は1970年あたりをピークに長期的な低落傾向にあるのだ、と。

 社会学者との響きは、とりわけ日本においてはどこか嘲笑のニュアンスを帯びずにはいない、ああ、あの3秒で反証可能な、その場限りのどうしようもない思いつきをさも学問の装いをもって垂れ流すクズどもの一群か、と。

 しかし、本書はそうした稚児の戯れとは一線を画する。巻末の原註のみで優に100ページを超えるそのヴォリュームに圧倒される。議論の立証にあたっては、いちいちがそれらソースの参照に基づいて行われる。『孤独なボウリングBowling Alone』なるポエティックな情緒を匂わせる表題を裏切るように、その手続きは牛歩のごとく凡庸で冗長で、そしてそれゆえにこそ、無二の重みを発さずにはいない。テーマは至ってシンプル。そもそも「社会関係資本」はいかなる曲線を描いているのか。その変化は何によってもたらされているのか。その変化はいかなる帰結を招いたのか。ただそれだけのことのために果てしない仕事量が注ぎ込まれる、社会科学の科学たる所以をその各ページが証明する。

 70年代って言ったらウーマンリブとやらで女性の社会進出が進んだ時代だよね、ならそれだけ仕事に時間が奪われるんだから、他のことができなくなって当たり前じゃん、だから女は家に留まって家族や地域のことだけやってればいいんだよ、そっちの方が社会うまく回ってたんじゃん、はい、論破――例えばこんな粗雑な戯言はまさか本書を前に通用するはずがない。そもそもからして「1965年から1995年の間に平均的米国人では自由時間が週当たり6.2時間――女性では4.5時間、男性では7.9時間――増加して」いる、つまり「過去30年間には、市民参加の低下を説明するような自由時間の減少は一般に見られない」。さらには、多忙に追われる人々はおろか、「『たくさんの空き時間がある』と答えた米国人口3分の1の人々の間でも、過去20年間に教会出席は15~20%、クラブ出席は30%、友人の歓待は35%急落している」。それどころか、「フルタイムで働く女性の方が、そうでない女性よりもこの落ち込みに対して抵抗力がありそうだ」。

 

 原著の上梓は2000年のこと、そして終章においてなされる2010年への提言を見るに、「社会関係資本」をめぐる筆者の賭けはどうやら成就しなかった。コロナがかけただろう追い打ちのダメージだけでも、そのリカバリーには絶望的なものがある。たとえ第3次世界大戦などという荒唐無稽がどこかで着火したところで、先の総力戦のような帰結は決して招かれることはない。事実、ベトナムでそれは起きなかった、そして敗北を余儀なくされた。時の大統領の親族やジョルティン・ジョーすら前線へと動員された40年代は遠い昔、父の威光で兵役を逃れたジュニアが我が物顔でのさばる世界に誰が連帯を期待しただろう、ましてや、上級国民の上級国民化がまさしく「社会関係資本」の減衰をもって強化されたこの21世紀に至っては。

 といって、市井の人々に何ができないわけでもない。リビングでひとり寝そべって情報番組にガッテンしている暇があるのなら、そのテレビを今すぐ消して誰かと「無駄な話をしよう 飽きるまで呑もう」(コロナはひとまず脇に置く)。「何の集団にも属していないものが、一つ加入することで、翌年の死亡率が半分になる」。少なくともアルコールのデメリットを帳消しにする程度には、どうやらその相手はあなたを健康にしてくれるらしい、そしてあなたは同時にその誰かを健康にすることができるらしい。相対的に肩入れできる議員や研究機関に献金する、そうした政治参加も大いに結構、しかしその金で例えば、なぜか今日まで潰れていない近所のくたびれた喫茶店に入り、うまくもないコーヒーをすすりながら、常連客の世間話に耳を傾けてみる。場末のカフェから近代革命が立ち上がったなんて故事を持ち出すのはほとんどこじつけ、しかし、住まうタウンをベッドからホームへと書き換えるそんなささいな試みが、もしかしたらその地に暮らす顔も知らない赤の他人の就職や未成年のドロップ・アウト防止と繋がっているかもしれない、あるいはそれがめぐりめぐって自身のサラリーを押し上げてくれる。内容ゼロの井戸端会議が、当人同士の息抜きや安否の点呼といった機能以上に、実は同じ路上で子どもたちが元気よく走り回る姿を後押ししている。そうした緩やかな橋を架け続ける「日々の人民投票」(E.ルナン)こそが、時に世界とすら接続する「社会関係資本」の礎に他ならない。「民主主義は状態ではなく行動である」、このことばは大上段に坐するカマラ・ハリスの専売特許ではない、専売特許にさせてはならない。