前に私は、宇沢が「経済学の『奥の院』にいた唯一の日本人だった」とのべた。その意味は、経済学者として顕著な実績を挙げたというだけでなく、1950年代後半から60年代にかけて、アメリカ経済学界の中枢メンバーのひとりだったということである。スタンフォード大学、シカゴ大学で研究をつづけた宇沢は、中堅若手の理論経済学者のなかで一、二を争う存在と目されていた。
ところが、アメリカ経済学界での評価が絶頂をきわめていたそのとき、宇沢は突如としてアメリカを去り、日本に帰国してしまった。シカゴから東京に居を移したのは、不惑を迎える1968年である。ベトナム戦争に動揺しはじめたアメリカから、高度経済成長の余韻さめやらぬ日本へ――場所の移動は、宇沢の経済学を根本から変えることになるのだが、有り体にいえば、「Hirofumi Uzawa」はこのころから行方不明となってしまった。……
帰国してからの宇沢は、高度経済成長の歪みとしてあらわれた公害や地域開発の問題を重視して、環境破壊の問題を経済学が引き受けるべき課題とみなし、自らが牽引してきた主流派の経済学を激しく批判するようになった。理論家としては、長い沈黙の時代にはいるのである。……
宇沢の沈黙を破ったのが、東西冷戦の終焉だったのは偶然ではない。対抗する理論や思想を喪った、ポスト冷戦時代の資本主義をみすえ、宇沢は社会的共通資本という新たな概念を携えて理論闘争の最前線に戻ってきた。
もう20年ほど前になるのだろうか、一度だけ氏を街中でお見かけしたことがある。
それは確か秋口のこと、まばゆいばかりの真紅のニットに腰まであろうかという白髭、サンタやんと思ったら、よくよく見ずとも宇沢弘文その人だった。
「ほとんどの人間が、何を知っているかではなく、誰を知っているかということによって職を見つける」。
ロバート・パットナムの名著『孤独なボウリング』にあって極めて印象的なこのアフォリズムは、不世出の大経済学者すらもその例外とはしなかった。といって、コネとツテだけでのし上がったなどと宇沢を貶める意図はない。誰にでも転がっているだろう偶然をあたかも必然と感じさせる、チャンスの前髪を掴み切る力が氏にあったその証左に他ならない。
既に宇沢のテキストは幾冊か読んでおり、無論、そのキャリアパスのあらましは知っていた。私が事前にそれらから描いていた宇沢のイメージはどこか今道友信のそれに重ならずにはいなかった。つまり、この戦争経験世代に固有の使命感に基づいて、数学の傑物があえて経世済民の道に自らの資質を投じる、まさしく「何を知っているか」の求道者像を想定していた。明確な目的意識に基づくデザインから例えばケネス・アローを発掘したのだ、と。
ところが、現実の宇沢をまさしく「誰を知っているか」の数奇な糸が導き続けていたことを本書を通じて告げられる。生まれるのではなく作られる、偶然のいたずらがやがて人間に天職Berufをもたらす、そのモデルを宇沢に見る。例えば住まい探しの局面においてすら、不意にその偶然は作動する。新婚生活を営むべくようやく見つけた物件の所有者は、なんとかのソースティン・ヴェブレンの継娘。もちろんそのことを知る誰かの斡旋を受けたわけでもない。持っている、としか言いようがない。
本書内に果たして幾人のノーベル経済学賞受賞者が登場するだろう、宇沢の個人史をたどれば、そのまま20世紀後半の経済学史が書き上がる、そう表現してもあながち誇張にはあたらない。それらのうちの少なからぬ者はたとえ相容れぬ存在ではあったにせよ、それほどまでに宇沢を触発した、彼を「奥の院」の住人たらしめた。いかほどに「誰を知っているか」に恵まれたその傍証は、豊富なトピックの数々をもって飽きさせることを知らないこの大著のページ数によって与えられる。
いわゆる「2部門モデル」は、宇沢の代表的な仕事として知られる。ここで「非常に興味深いエピソードがある。『2階級、2部門』を前提とした2部門モデルという着想を、宇沢はカール・マルクスの『資本論』から得たというのである」。若き日の宇沢における経済学の入口とは、時代の例に漏れずマルクスだった。もっとも「マルクスの著作を哲学書を読むように読んでは解釈に頭を悩ませていた宇沢は、アローに触発されて数理経済学に目覚めてからというもの、泥沼に足をとられているような重苦しさから抜け出せた」、その宇沢が、時が流れ、改めて『資本論』との邂逅を果たす。
そして、「誰を知っているか」の幸福なスパイラルがいつしか途切れてしまう。「社会的共通資本」を説く宇沢本人がコンセプトそれ自体を「共通」にする誰かを持つこともできない、その痛々しさがやがて本書を覆う。
宇沢流リベラリズムの源泉であるジョン・デューイが自由主義のジレンマを指摘する。「自由主義の役割とは、新しい科学と新しい生産力とを代表する個人の集団を、当時いかに有用であったとはいえ、とにかく社会行動の新様式に対して強圧的存在であった慣習、思考方法、制度等から解放することにあった。そこに用いられた分析、批判、分解というような用具は、解放の仕事には大いに役立った。しかしそれが、新勢力を組織するという問題、またその新勢力によって知的、道徳的に主導力をもった首尾一貫した組織に生活様式を急激に改変されなければならない個人、そうした個人の組織化という問題にぶつかったとき、自由主義はほとんど無為無能となってしまったのである」。
まさしく帰朝後の宇沢がぶち当たった壁を予示する。ミルトン・フリードマンが強固たるシカゴ・スクールを編成したのとは対照的に、宇沢は終生学派を拒み、「徹底した個人主義者」たらんことを追求した。そしてそれが皮肉にも、「社会的共通資本」において、「個人の組織化」を持たざるが故の空中分解をもたらす。コモンズを強調すればするほどに、そのコモンなきさま、理論と実践を媒介する翻訳者の欠如を暴露する。結果、三里塚農社に「公園都市」と、誰の目にも明らかな一人相撲に明け暮れることを余儀なくされる。そして晩年に至っては、仇敵の衣鉢を奪うように、新たなシンクタンク創設に際して「論文作成工場」などという構想を公言する。その場において展開された出来事も、ディテールこそぼやかされてはいるが典型的なアカハラ、パワハラの類、当然にフォロワーなどつくはずもない。
なぜにここまでの空転を重ねたかといって、本書を追えばその理由は明確だろう、出会いに恵まれなかったから、と結論づけざるを得ない、ちょうどアメリカにおけるそのキャリアとは対照的に。目下の課題に向き合って「何を知っているか」をどれほどまでに欲せども、それを共に研磨する「誰を知っているか」を持たざれば、バルザック『知られざる傑作』の悲劇をそのままに繰り返すより他にない。そして皮肉にも、この事態はわずか一語で表現できてしまう、つまり、「社会的共通資本」の欠如。
「宇沢は、ひとりぼっちでした」。
未知のフロンティアを行くパイオニアの孤独とも違う、渇望と焦燥がもたらした蜃気楼として、ここに至って「社会的共通資本」の秘めていたもう一つの顔に気づかされる。筆者はその姿に『青い鳥』を重ねる。このメーテルリンクの旅路は、戻るべき場所、見出すべききらめきを予め用意していた。しかし、宇沢はその譬えにはあたらない。光なき荒野に光を求めてひとりさまよう、それはむしろ盲目のオイディプスに果てしなく似る。