なんとなく、クリスタル

 

 ブックオフの社会的・文化的意義とはどこにあるのか――。

 これが、本書に課されたミッションです。

 そして、それを解く鍵が、ブックオフが持つ「なんとなく性」にあるのではないか――。

 この簡単な一文が本書の結論です。……

「なんとなく性」とは何でしょうか。「なんとなく」、つまり「目的がないこと、はっきりとした理由がない」ということ。ブックオフの棚には「明確な目的」があるわけではなく、「なんとなくそこに存在している商品」が多くあります。

 そもそも、従来の古本屋は、その本屋を営む店主が自身の目利きによって本を選びます。……そこには品ぞろえについての目的があり、意図があります。

 一方でブックオフの書棚は、このような「目的」や「意図」の度合いが相対的に低いのです。これを説明するためには、ブックオフの買い取りシステムを考える必要があります。……

 ブックオフの棚には、周辺住民が売ったものがそのまま並ぶことになり、ブックオフ側の意図を超えた品ぞろえが生まれるのです。まさに、ただ「なんとなく」存在する商品で書棚が埋め尽くされるのです。

 

 マーケティングの世界には、各地域における住民の暮らしぶりというのは驚くべきまでに均質である、というテーゼがある。不動産相場から逆算するように収入の多寡も概ね均質ならば、その街で提供される各種コンテンツや行政サービスにはワーストの中のベストと呼べる程度には相応の選択根拠が存在している。例えばその街のスーパーマーケットの鮮魚コーナーの品揃えがパッとしないのは、近所によほど優れた魚屋がひしめいているという想定の必要もないような例外を除けば、単にニーズとウォンツがないからに他ならない。そうして規定される彼らの冷蔵庫の中身というのは、同一セグメント間においては驚くほど似ているし、文化資本が重なっているため参考にするレシピサイトや料理番組さえも共通している。カレールーはこくまろか、バーモントか、発泡酒はキリンか、アサヒか、その程度のことにすら「なんとなく」で説明可能な要素はこれといって見当たらない。

 各人が「なんとなく」その日の気分に合わせてそれぞれに見合った消費行動を営んでいるようでいて、ビッグデータと呼ぶほどですらない売上伝票は「なんとなく」ならざる神の見えざる手の必然をそこに観ずにはいない。売れなければ仕入れない、そうした日々の淘汰が街並みに隈なく表象される。

 スーパーのラインナップがショボいのは、「なんとなく」でもなんでもなく、その街に暮らす人々が食事に対してさしたるプライオリティを置いていない、という共通了解の反映にすぎない。

 駅前書店のラインナップがショボいのは、「なんとなく」でもなんでもなく、その街に暮らす人々が読書に対してさしたるプライオリティを置いていない、という共通了解の反映にすぎない。

 すなわち、そこから持ち込まれるブックオフ各店舗における品ぞろえには、今日のあなたの夕食と同じく、いかなる「なんとなく」の余地もない。あなたが住まうその街の文化資本から導出される必然の帰結でしかない、言い換えれば、あなたの好みが書棚に揺らぎなく反映されている。いかなる凄腕書店員でも及びもつかない有能極まるそのキュレーターの名を、例えば神の見えざる手と呼ぶ。

 

 本書の中で、ある地方出身ライターは証言する。

「地方と都会の差。ブックオフにしても東京の店舗と地方の店舗ではラインナップが全然違う。正直、東京に来て最初に驚いたことのひとつには『ブックオフの品揃えがめちゃめちゃいい』というのがあります」。

 amazonが日本に到来したごく初期のこと、人々は夢見ていた。大型書店を擁しない地方民が、専門的なテキストにアクセスできるようになることで、文化的資本格差のフラット化が進む、と。売れて数千部だったジャンルに新顧客の掘り起こしが進む、と。

 しかしそんなことは全く起きなかった。売上データが暴露したようにむしろ、そうした需要はそもそも都市部にしかなかった。地方に職を得た大学教員などというカテゴリーは統計的には存在しないも同然で、ローカルに住まう圧倒的マジョリティははなからそうした書籍を検索するきっかけすら得られないことを見える化しただけだった。ネットが呼び込んだのは、ロングテールの共存共栄ではなく、ドラゴンヘッドの一極集中でしかなかった。

 新刊書籍の購買行動からして既に「なんとなく」などひとつとしてない。そこからのリリースに「なんとなく」が生まれようはずもない。

 

 最近私が買った新刊のうちの一冊。

中井久夫 人と仕事』。税込2860円。#3000ブックオフ とかいう薄ら寒い企画予算でもお釣りがくる。行きつけの書店でたまたま目に入り即購入。

 最相葉月みすず書房精神分析学。

 私の読書傾向ど真ん中を射止めた「なんとなく」の欠片もないこのテキストの存在を、何がどうしたらそうなるのか、この日までにamazonはリコメンドすることができなかった。

 案外、アルゴリズムなんてその程度の代物でしかない、これからもずっと。

 ちなみに今日現在、kindleならば2717円でダウンロードできるらしい。あの日あの時あの場所でもしスマホを取り出しワンクリックしていたら、出会いをプロデュースしてくれた本屋にはもちろん一銭の金も落ちていない。143円(プラス82ポイント)を節約することで、賢い消費者となることで、あるいは失われてしまう「いるコミュニティ」がそこにある。

 

 東浩紀に準拠しつつ筆者は言う。「ショッピングモールでは個々人が買い物をしやすくするためにその動線が設計されたり、モール内の気温が一定になっていたりします。それによって、例えばベビーカーなどを押して歩く家族にも歩きやすい空間がそこには生まれています。それは、消費者が声を上げて企業側と討議したうえでそのようになっただけではなく、むしろ消費者がなんとなくそのように動く行動パターンを企業側が読み取って、それに合致するような動線を作っているわけです」。

 ここには人間工学やビッグデータに基づく必然だけがある、「なんとなく」などひとつとしてない。

 今や地方部で終の棲家を買うとなれば、その立地選択のベースとなるのは専らショッピングモールであるらしい。当然にその聖地へのアクセスは自家用車を前提とする。彼らは自分がローカルでの孤立を余儀なくされた暴走老人になる必然の未来など、片時たりとも想像しない。中毒者にいかに心地よく「なんとなく」――ユーザーの主観としての――課金ガチャを回させるかにソシャゲのプラットフォーマーが腐心するのと全く同じこと、ショッピングモールのウェルメイドな「公共性」は、今月来月彼らから「なんとなく」いくら金を巻き上げられるかには関心を寄せても、数十年後の彼らの住まい方など知ろうともしない。コストコの快適な動線は、「なんとなく」のドカ買いがもたらすその後の彼らの疾病リスクを何ら引き受けようとはしない。汲み出す金が尽きればモールは当然に撤退していく、その後の彼らの暮らしに思いを巡らせてやる筋合いもない。

 既にビッグデータへと還元されたことで用の済んだ、そんな計算可能コンテンツ――それを別のことばで「動物化」とも呼ぶ――でしかない彼らの消費選好に合わせて書籍市場をデザインすればどうなるか。再販制度などぶっちぎって、どうせ同じ本を買うのならば、1円でも安い方がいい。どうしようもないほどに汚れているとかでなければ古本であっても一向に構わない。売り手にしても二度と読まない本にスペースを占拠されるどころか、いくらかのお金になるのだから、買い手がつくことは歓迎すべきことに違いない。そうしたトレードを媒介するブックオフやメルカリもそれなりのマージンを得ることができる。三方一両得、良くできている、一見。

 しかし少なくとも現行のシステム上、このトレードでは著作権者や出版社には1円の金も入りようがない。金にならない以上、新たなテキストの供給は先細りを余儀なくされて、結果として文化そのものがシュリンクしていく。古本が再び古本として放出されることはあっても、新刊が古本市場へと流れ込む動きは減っていくのだから、間もなくそちらのパイもダウンサイジングしていく。もちろん、この縮小は、社会全体での知識の総量がスポイルされていく、その具現を意味している。ゼロ成長、ゼロ生産性の彼らに即して設計される「公共性」が、他にいかなるありようを取れるだろう。

 低きに流れる水に迎合すること、J.J.ルソーならば全体意志と喝破しただろう、タッチパネルで置換可能、置換不要なバカのバカによるバカのためのこのとめどなき市場原理の必然を一般意志の「公共性」と筆者が本気で思っているのならば、あるいはそうなのかもしれない。

 

 本書で言及されているわけではないけれど、ブックオフ害悪説に対するある種の反論は用意できる。

 YouTubeの違法アップロードを取り除いたところでユーザーが有料コンテンツを購入することなど期待できないように、ブックオフで買えなくなったところで別に彼らが新刊に手を伸ばすことはない。従って、そちらの市場規模が毀損されているわけではない、と。ベストセラーの予約のために図書館で数ヵ月待ちできてしまう彼らは、所蔵に制限をかけたところで新刊書店にも電子書籍にもブックオフにも向かいやしないし、そして実際のところ、その20パーセントもめくりやしないまま返却期限を迎える。

 たぶん、こうした反論は正しい。新刊が買われないこととこのビジネスモデルの間には、おそらくさしたる相関性は認められない。むしろとりわけ揺籃期のブックオフの拠点となった郊外にあっては、事実として他からは供給されることのなかった「文化のインフラ」を提供していた、もしくは提供していると信じるに足る証拠すら本書では示されている。

 彼らだってもしかしたら思っているのかもしれない、十分な可処分所得さえあれば、自分たちだって作り手に報酬が支払われるような消費行動を取りたい、と。しかし、ブックオフの台頭と奇しくも同期化して進行したこの失われた30年の中で、そんなものはもうどこにもありやしない。

 かつてならば、誰と喋るでもない例えば居酒屋や喫茶店といった場所がサードプレイスとして「いるコミュニティ」を体現していたのかもしれない、しかしそんなところに金を落とすことはもはやかなわない。かくして無料で立ち読みできるブックオフが、ある種の人々にその代替の選択肢を提供するようになった。ブックオフを叩き潰したところで、何のマーケットが切り開かれることもない。ブックオフはこのトレンドに乗っただけで、作ったわけではないのだから。ホモ・エコノミクスは「なんとなく」ブックオフを選んだわけではない、市場に由来する必然だけがそこにある。そこに集うひとにもものにも、いかなる「なんとなく」の余地もない。

 デフレスパイラル――より正確にはスタグフレーションスパイラル――に咲いた花としてのブックオフが、たとえ傍からは互いが互いを買い叩く、タコがタコ足を食らうがごとき構造不況の惨めな縮図にしか映らなかったとしても、それはすべて神の見えざる手の作用に過ぎない。そこにどうして「なんとなく」が介在するができようか。

 

 

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