闇(ヤミ)とは、公定(マルコウ)の対語である。統制経済の時代には、政府の手で主な消費物資にいちいち価格がつけられ、違反すると処罰された。だから、マルコウ以外の商品は明るい太陽の下に出ることはできず、その売買はヤミになった。ヤミの商品を売り買いする市場がすなわちヤミ市である。ここには、食料品、衣類、雑貨、その他、販売が禁止されているものなら、なんでも並んでいた。1947年夏に飲食店がすべて禁止されてからは、逆に呑み屋と食べ物屋がその中心になった。はじめのうちは、駅の前にできた焼け跡や疎開後の空き地で、青天井の露店市だったが、翌年になると土地の上に平屋の長屋をつくってマーケットと呼び、敗戦後の一時期、露店とともに、東京の盛り場をつくりだした。これがヤミ市である。……
では、この万華鏡のように変転極まりないヤミ市の街に降りたって、ところどころにスポットを当てながら、貧しく生き抜いていた敗戦後の盛り場を探訪していくことにしよう。
一時的とはいえ、例えばどのような地域で栄えたのか、どのような出店形式を取っていたのか、そうした記録としても面白くはある。ヤミという割にかなりしっかりとした文献が残されていることに、どこか腑に落ちないような、妙な感慨に襲われる。
しかし、本書の醍醐味といえばやはり、その地でかつて営まれていた生活史が具体的に垣間見えるその瞬間、つまりは人々が何を売り買いしていたのか、に入り込んていくその瞬間にこそある。
例えば俗称「栄養スープ」、獅子文六の伝えるところによれば、「一サジ含んでみると、ネットリと甘く、油濃く、動物性のシルコのようで、なんともいえぬ、腹の張る味だった。……戦前には絶対になかった、実質的で、体裁をかまわぬ料理であることも確かだった」。この新製品の正体、何のことはない、「アメリカ占領軍の食堂からでた残飯のごった煮」に過ぎない。
食料統制のご時世にあってヤミ市で寿司が供される。といって、「米の代わりにおからを使って、トロの代わりが〔クジラの〕ベーコンで、卵焼きの代わりにタクワンで、具に青野菜」、それでも人々はその味を求めて群がった。
夜の新宿のヤミ市でタバコを捌く、ただしPXの横流し品などという大層なものではない。「米軍のキャンプから兵士用の大きな共同灰皿に残った吸殻を集め、これをほぐし、煙草巻き機でつくったものである。だいたい吸殻10本が煙草1本に化ける」。
こうしたもので食いつなぎながら、刻苦勉励して仕事に打ち込み、戦後復興に力を尽くした、そんな美談に収めることを筆者は決して許さない。少しでも冷静に考えてみれば、それほどまでに市井の生産性も購買力も欠けていたというのに、どこに満足な仕事が転がっているだろう。
当時のヤミ市相場を現代(原著の出版は1995年)に置き換えてみると、カストリがコップ1杯で5000円、たった2切れの湯豆腐が2000円、「ヤミ市で儲けた金をここで吐き出して帰る……キマエがよくなかったら、金の値打ちを考えていたらとても常識では入り込めないはずの場所が、不夜城の賑わいを見せていたのは、世の中自体が、ヤミだったからである」。
明日をも知れぬ命なのに未来の展望など誰が描けようか、「ヤミ」の中を刹那的に生きるより他に彼らに何が選べただろう。筆者はそうした病みの時代の象徴をパチンコに透かす。
「こうした暮らし、それはそれ自体が一種の賭博ではなかったろうか。しかも、大多数の人びとは専門の博徒でもなければ、専門のヤミ商人でもないという状況の下で、ヤミ市のパチンコは、ちょうどこうした生活のパターンにマッチしたソフトな射倖性をもつゲームだったのである」。
戦後小津映画の世界にあって、自身の存在を持て余す笠智衆がやたらとパチンコを打つ。あるいはポスト3.11にあっても、気づけば少なからぬ被災者はパチスロに向かっていた、という。受け止めるにはつらすぎる現実を束の間忘れられる空白の時間を買うために、昔も今も、アルコールに走る、パチンコ台に向かう、女に溺れる。
そんな「ヤミ」の深淵が不意にのぞく。