Who Let the Dogs Out

 

『ファイターズの今後を考える ~ファイターズがめざすゴールはどこか~』

 タイトルはそのまま、前沢がここ数年抱えてきた葛藤を表していた。〔北海道日本ハム〕ファイターズは東京から北海道に移転して7年目のシーズンを迎えていた。白と青を基調にしたユニフォームも、その球団イメージも北の大地に根付きつつあった。前沢にはとてもこのままでいいとは思えなかった。……

 だが、その裏では人知れずジレンマも膨らんでいた。現場の選手やスタッフから悲鳴が聞こえてきたのは、移転してまもなくのことだった。

「このグラウンドではダイビングキャッチができない」

「この球場で3連戦をやると、身体がボロボロになる」

「バックヤードが狭すぎて、トレーナーの処置もままならない」……

 事業面でもジレンマはあった。……球団は毎年、球場使用料として約13億円を支払っていた。札幌ドーム側はファイターズが本拠地とすることで使用料とグッズや飲食店販売収入の一部などを合わせて年間およそ20億円の収入があり、その総額はファイターズの選手総年俸に迫るものであった。また顧客サービスのためのハードを改善しようにも、あらゆることにドーム側の許可がなければ実現しなかった。……

 それらすべての問題の根っこは、札幌ドームが借家であることだった。一見すればファイターズは理想の地を見つけたように映るのかもしれない。だが、自分たちがいるのは決して楽園ではなく、このままでは将来、危機的状況が訪れるはずだと前沢は考えていた。それを解決するために球団内にも秘して資料を作成していた。

 

 ある者は球団職員として、ある者は地方公務員として、またある者は新聞記者として、かつての野球少年たちが長じてそれぞれの持ち場でボールパークというアンビションを実現する。その群像劇の物語として、このフィールド・オブ・ドリームスはなるほど確かに美しい。

 しかし、単に職務という枠を超えたこうした麗しきストーリーは、おそらくどんな巨大インフラにだって転がっている。あの新国立競技場でさえも、1964年の東京の空は青かった、と証言してくれる関係者は山のように存在していることだろう。コンパクト五輪を打ち出して誘致にかかったはずが、いつの間にか明治神宮周辺の再開発のフラッグシップとしてあれよあれよと着工が既成事実化され、気づいてみれば建築費2500億円、おまけに年間維持費24億円を回収の目途もなく計上し続ける、負のレガシーとして今やすっかりおなじみの、あの新国立競技場でさえも、である。

 奇しくも札幌ドームにしても、2002年のサッカーワールドカップという祝祭ファシズムのその後で、他の自治体において四半世紀を経ようとする現在においてなおそうあるように、財政をシロアリのように食い潰す忌々しきゾンビとして横たわる、速やかな損切りのほかになすべき道筋を何ひとつ持ち得ないハコモノの典型のはずだった。

 ところが、プロ野球興行という瓢箪から駒が、なまじその窮地を救ってしまった。代償は、ファイターズの懐に収まっていて然るべき年間30億円強のマージンと、そしてプレイヤーの健康と、例えば無暗に広いファールゾーンがもたらす臨場感の喪失だった。

 あの金で何が買えたか。それらのソリューションが、新球場の建設だった。

 

 彼らそれぞれが内に秘めたアンビションをめぐる、プロジェクトXまがいの人間ドラマも結構なのだが、それだけで公共財は決して成立しない。

 お金儲けして何が悪いんですか。本書には抽象的な理想論はあっても、このボールパークをいかにして営んでいくか、という実益のヴィジョンがまるで見えてこないのである。

 売上高13000億円を誇る食肉メジャーの親会社ですらも、本書に従えば、設備投資に拠出する金額は年でせいぜい300億円なのだという。いかにその広告塔が四国上がりの問屋を業界最大手に押し出すに貢献してくれたにせよ、たかが野球という「虚業」のために、そんな本体から600億円の建設コストを引き出す、そのための説得力がテキストからは一向に窺い知ることができない。こうしたテーマは、「新株を発行するのか、金融機関から借り入れるのか、エクイティ・ファイナンスとデット・ファイナンス、二通りの資金調達について、それぞれプランを提示した。さらに国土交通省の外郭団体や大手広告代理店などから出資を取りつけてきた。それらの企業と共同出資会社をつくることで、本社の負担を抑える見通しを立てた」、たかがこの程度の記述で済まされていいような話なのだろうか。そしてそれは、関係者諸氏の高校野球経験なんてことよりも、エスコンフィールドを建築するにあたってはるかにウェイトの軽い話なのだろうか。

 どの産業においても、集客能力はつまるところ、半径数キロ、数百メートルの経済圏に生活する人口にほぼ比例する。札幌という「リトル東京」に隣接するアクセシビリティがあるにせよ、北広島市そのもののの規模といえば、人口6万弱、年間予算300億円弱でしかない。その自治体が、町の命運を賭けた大博打に乗り出すのである。果たしてその勝算をめぐる折衝は、当事者のひとりが休日に務める少年野球の監督としてのモットーに比して、何ら誘致に寄与するところもない、論じられるにも値しないテーマなのだろうか。「野球を観るためだけの球場ではなく、人が集まり繋がる場所を生み出したい。スタジアムを中心に街をつくりたい」。これくらいの大風呂敷は収益モデルも何もないJリーグでも広げられる。住民向けのプレゼンテーションで提示された青写真の壮麗さがすべてだというのならば、日本中の至るところが何かしらの競技施設やライブスペースで埋め尽くされているに違いない。

 

 こうしたいかにも「いい話」を求めてやまない層には、本書はいかにもたまらない一冊なのだろう。日々地上波テレビにかじりつく大谷ハラスメントの消費者層が欲しているのも、おそらくはこうしたカギ括弧つきの「いい話」なのだろう。現実逃避の具として誰しもが渇望しているアヘンが、汗と涙のいかにも映える「いい話」なのだろう。

 だからこそ、つい邪なことが頭をよぎらずにはいない。「いい話」でボールパークが建つのですか、「いい話」でボールパークが維持できるのですか、と。

 スタジアムの運命がアンビションの高低によって決せられることはない、すべては計算能力の高低に規定される。

 

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