黄色い本

 

 古本屋の大変さは、自由さと裏表だ。必ず置かなければいけない本はなく、買い取りたくない本は断ってもいいし、本には好きな値段をつけられる。出版社や取次と交渉することもない。新刊書店と違って、ルールもほぼないと言っていいだろう。……

 大きな新刊書店から小さな古本屋に、会社員から自営業に、東京から沖縄に移って、さまざまな立場から本屋という仕事について考えてきた。店でいろいろな人と知りあって、思いがけない仕事をする機会にも恵まれた。

 この本は、本屋の教科書でも進路案内でもない。ただ、私が本屋で出会った人や本、できごとを紹介することで、本屋の仕事の一面を見ていただけたら、そして驚きやよろこびを一緒に感じてもらえたらうれしい。

 

 2016年のこと、筆者が構える店から通りを隔てた向かいに鎮座する牧志公設市場の建て替えが決まる(既にリニューアルを完了している)。この沖縄の台所は、戦後の闇市に端を発している。かつて商人たちが露店を並べたその川はやがて暗渠の蓋で覆われ、市場に面した道にはアーケードがかけられた。川の上、屋根の下、奇しくも那覇の戦後民衆史を煮固めたその間にはさまれるうちの一軒が、「市場の古本屋ウララ」だった。

 テキストという世界最古のメモリに携わる者の性なのか、つい筆者は今まさに目の前で失われゆくこの出来事を記録したくなる。ところがそのアイディアは、一部商店主から思わぬ反発を受ける、「そんなひまがあったら新しいアーケードの計画を進めた方がいい」と。そうした声に筆者は虚を突かれる。「記録するのはいいことだと無邪気に信じていたけれど、役に立たないと思うほうが多数派なのかもしれない」。

 

 少し前に読んだ星野博美『世界は五反田から始まった』からの受け売り、曰く、世の中は二種類の人間に分けられる。

 一方は「忘却原動力系」、すなわち「とにかく過去をどんどん消去し、前だけを向いて生きる人……忘れっぽいというより、忘れることを未来に向けた原動力とする、といった趣だ」。『本屋になりたい』に言い換えを探せば、「いつも未来のことを、明日の売上のことを考えてワクワクできる人。……記録や写真で過去を残すことに興味を示さず、ずっと先を見ている」そんな人。

 そして他方に「記憶冷凍保存系語り部」がいる。「人生で見聞きした様々な場面を、カメラのシャッターを切るように次々と切り取り、まるごと記憶し、そこになんらかの物語を発見して、おもしろく語れる人」。やはり本書に類似の表現を探せば、「商売人の端くれであるはずだけれど、昨日売れた本や亡くなった著者のことをいつまでも考えてしまう」、そんな筆者のようなタイプ、あるいは挿絵を手がけた高野文子のようなタイプ。

 再開発という端境期に置かれて、「なんといっても古本屋なのだからしかたない」生業に固有の「語り部」というこの性質が、どうにも起動せずにはいない。「同じように昔のことが気になる人たちのために古い本を並べて、昔の話を聞いている。昔のことが気になる未来の人たちのために、いまのことを記録しておきたいと望んでいる」。

 この点は新刊書店だって同じでしょ? と思いきや、必ずしもそうとは言い切れないものがある。というのも、「新刊書店では、本は基本的に出版社からの委託品だ。委託期間内なら出版社に返品することができ、出版社によっては本を毎年入れ替える制度がある。/……新刊が毎日入ってくるので、限られた棚とバックヤードに収まるように、本はどんどん返品していく」。残せるものなら残したいのかもしれない、でも各種コストや低利益率がそれを許さない。ある面では、新刊書店ほど「とにかく過去をどんどん消去し、前だけを向いて生きる」、そんな「忘却原動力系」の生き様を強いられる業種はふたつとない。

 対して、扱われている「古本はすべて古本屋が買い取ったものだ」。曲がりなりにも、その商いが成り立っているということは、日々現に人から人へと本がリレーされていることの証である。そしてそのサイクルから、新刊書店からはこぼれ落ちざるを得ないテキストから、期せずして「なんらかの物語」が生まれてしまうことがある。

 

 あるときのこと、店の常連から袋いっぱいのリンゴを「お礼にどうぞ」と差し入れられる。その大学教員が言うことには、「ここでずいぶん前に買ったまま置いていた本があって、このまえなんとなく見ていたら、まさに自分が調べようとしていたことが書いてあったんです。おかげで論文が書けました」。

 専門ジャンルの最新刊ならば心ある研究者は頼まれなくてもチェックする、もしくは放っておいても献本が届く、そもそも学会での中間発表も重ねていることだろう、そうしてただちにサークル内の誰もに知れ渡ってしまうのだから、ある面でそこに発見はないといえばない。しかしアーカイヴズからすらも漏れてしまった即時性なき古本から、かえって時に瓢箪から駒ならぬリンゴが出る。まさに知をシェアするために生み出された記録媒体であるからこそ、こうした温故知新の再生の瞬間が与えられる。してみれば、古本屋こそがまさに本の本たる所以を体現しているのかもしれない。

「たとえば、本は所有するものではなく、一時的に借りているものだと考えてみてはどうだろう。新刊書店や古本屋で見つけて買った本を、時期が来たら売ったりあげたりして、次の人に渡す。そのあいだだけ、預かっている。私がいなくなっても、私の持っていた本はだれかの棚に並び、読まれ続けるかもしれない。本がバトンのように手渡されていくのだ」。

 

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