ドライブ・マイ・カー

 

 私は、手で話し、愛し、慈しむ人たちの世界が特別なんだと思ってきた。正確に言うと、自分の父や母が誰より美しいと思っていた。口の言葉の代わりに手の言葉を使うことが、唇の代わりに顔の表情を微妙に動かして手語を使うことが美しいと。しかし、誰もそれを「美しい」とは言わなかった。世間の人たちはむしろそれを「障害」あるいは「欠陥」と呼んだ。

「うちの両親は聴覚障害者です」

 私はどこに行ってもこのフレーズをまず最初に言わなければならなかった。そうしなければ、母の代わりに口を開いて、あれこれ尋ねなければならない私の立場を説明することができなかったからだ。

 しかし、人々はすぐに当惑の表情を浮かべた。同情と憐憫が入り混じった目つきとともに。私は両者の間でアイデンティティの混乱に見舞われた。父や母は、自分たちだけが持つ固有の言語があり、ろう者だけが持つろう文化があると、よく自慢げに手で話していた。しかし、口で話す人々はそれを理解できないため、聞こえる世界と聞こえない世界はいつも衝突するほかなかった。

 

 Children of Deaf Adults

 その頭文字をとってコーダCODAという、らしい。先のオスカー・プライズをもって広く知られるようになった語のひとつ。

 と、いきなりそこから脱線する。

 同じくアカデミー賞作品賞候補に名を連ねた日本映画『ドライブ・マイ・カー』にひときわ異彩を放つ登場人物がある。西島秀俊霧島れいかが織りなす、地獄のように単調な数十分の後――この冗長なリズムをあえて鑑賞者に叩き込むことが後に意味を持ってくる――、ノイジーなまでの抑揚を帯びたキャラクターが放り込まれる。チェーホフのヒロイン、ソーニャを演じるユナ。耳は聞こえる、ただし声が出せない彼女は、舞台上でも韓国手語を操る。マルチリンガルが飛び交うこの空間上で、音の上下や強弱で意味の出し入れをする、従って言語特性上、棒読みが成立しない北京語に負けず劣らず、この手語と表情が演出上の破綻を思わせるまでにとにかく目を引く。

 ろう者の両親のもとに生まれ、第一言語として手語を覚えたコーダの筆者は言う。

「どこに行っても、私は聞かれた。なぜそんなに直接的に話すのか。あなたはなぜそんなにストレートなのか。なんでそんなに手を動かすのか。どうして表情がすごく豊かなのか」。

 直接的に視覚に訴えかける手語の性質が筆者の人格をかたち作った。

 

 しかしその傍らで筆者が同時に訴えるのは、ヤングケアラーとしてのそのキャリア。

「引っ越しする家を探すことや、銀行に電話をかけて、我が家の借金がどのくらいあるのかを尋ねて通訳する」、わずか8歳の子どもが、である。

 本書内、虚を突かれたことがある。なんだかんだと言っても、ネット以前の時代であっても、対面の筆談などの文字によってほとんどの部分はカバーできるのではないか、とうすぼんやりと考えていた、というかまともに考えてすらいなかった。

 しかし、音声言語と視覚言語は逐語訳的にはできていない。想像するに、スピーチ・コミュニケーションの実践なき座学のテキストだけで外国語を習得することと、ろう者が健聴者の言語領域をインストールすることの難易度はおそらくはそう変わらない。「父も母も文章ひとつちゃんと書けない人だった」、それはたぶん彼らが実子や周囲に甘えた結果ではない。

 語彙をめぐる衝突が時に現れる。盆の里帰りでの出来事。

「『ボラ、おばあさんのお姉さんの息子が今どこで何をしているのか聞いてよ』

 母が『おばあさん』という単語に『お姉さん』という単語をつけ、さらにその下に『息子』という単語を加えて、その後にその人が元気にやっているのかと私に聞くと、私はそれをいっぺんに通訳することができなかった。いったいその人が誰なのか、その人をどう呼べばいいのか、知りようがなかったからだ(韓国の親族の呼称は細かく分かれており、男女、嫁など立場によっても変わってくる。韓国人でも複雑でわからないことも多い)。……

 手語では姑を『夫の母』と説明して表現し、丈母は『妻の母』と言う。『堂叔』『妻弟』(妻の妹)のような複雑な単語は『父+従兄弟』などと表現する。だから毎回母に、その人を私が音声言語でどう呼ぶのかを尋ねた。だが母はそれを手語の単語で説明した。口の言葉ではわからないと言う。やっかいな役目だった。しかし、母の立場で考えるとそれを知らないのは当然だった。誰々のお母さん、誰々のお姉さんの息子、そのように呼ぶことは手語では当たり前のことだったからだ」。

 

 現代的な読者は本書を前に困惑に駆られるのかもしれない。時系列も激しく前後していれば、テーマごとに書き分けられているわけでもない。そしておそらく提示される最大の疑問といえば、それで結局、ろう文化の豊かさについて論じたいのだろうか、それともヤングケアラーとしての苦悩を訴えたいのだろうか、といった二者択一に違いない。

 読者として代弁すれば、そのいずれについても筆者は語っている。構成という発想を半ば放棄して、浮かんだメッセージをその瞬間思いついた通りに綴っていく、この錯綜した文体が彼女の混沌としたマインドを逆説的に的確に伝える。

 別に、こうしたねじれはコーダに固有のものではない。自分の親やパートナー、知人に置き換えてみても、肯定か否定かのいずれをもって決することがいかに愚かしいかはただちに理解されよう。

 コーダだから分からないわけではない、そもそも他人についてなんて分かりやしない、たとえ言語を同じくしようとも。それはまさに『ドライブ・マイ・カー』そのままに。