花束みたいな恋をした

 

 主人公徳山久志はエリート一家の出がらし、国立医学部志望というわけでもないのに三浪中のチェーン居酒屋アルバイト、もっとも「仕事は遅い、要領は悪い、グラスはよく割るし、料理皿はよく落とす、ハンディのボタンの位置をなかなか覚えないし、ウォッシャーを使った簡単な皿洗いにもやたら時間をかける、胃腸が弱いからと言って忙しいなかでもしょっちゅうトイレに駆け込む、ちょっときつく説教されるとこれ見よがしに落ち込む」。唯一長所といえばそのルックス、「すらりとした顔立ちで、背も高く、瞳が潤んで澄んで大きく見えるのが特徴的で、第一印象では女性から好意のまなざしを向けられることが多い」。

 ローカル・スーパーの広告モデルが務まる程度にはイケメンのその彼が、初対面で笑われる。バイト明けの早朝キャバクラ、挨拶すらも交わさぬうちから唐突に、店中に反響する声で膝から崩れ落ちんばかりに嬢が笑い転げる。「淀川区西淀川区東淀川区のなかでいちばんの美人」のその彼女から去り際に渡された名刺には、ペンで書き加えられた本名と携帯番号、そしてメッセージが添えられていた。

「しんどくなったり死にたくなったら電話してください。いつでも。」。

 

 後のデート中、腹筋崩壊のわけを尋ねる。

「ただ、なんか、私たち似てるなあって直感でわかって、もうギュギュっときて、なんか安心したような懐かしさというか、そのバカバカしさにたまらず笑えてしまったというか……」

 そしておそらく彼らは似ていた、つまり、「トラウマとかDV体験とかそんなん、一種の杖やと思います。心のバネになったり言い訳にもできたり。アクセサリー代わりにしてる女の子もいてるし。あと、現代の流行病に乗り遅れている感もある。私にはそれがない」。

 たぶん彼の場合は単に空っぽなだけ、いずれにせよ、「ない」というその一点で、彼らは似ていた。そして間もなく彼女のタワマンでの同棲がはじまる。

 

 彼らを隔てる対照群として描かれるのは例えばこんな人たち。

 金はある、金しかない、サロン・ビジネスの親元は昂然と言い放つ。

「おまえ、どんな家に住んでみたい? 想像してみろ。そのおまえの理想の家に俺は住めるから。どこに行ってみたい? 何を見たい? 何を手に入れたい? どんなものを食べたい? どんな女を抱きたい? 芸能人とか有名人の誰に会いたい? おまえ本物の音楽って聴いたことあるか? それも自宅に招いてやで? 俺はそれを全部できるから。おまえのチンケな理想をすべて現実にできるから。なんでか言うたらな、俺には金があるからや。それが真実や。羨ましいやろうが、このクソガキ!」

 あるいは、徳山をキャバクラへと連れ出したバイト先の同僚は、AVを見すぎた吉本芸人のような一度限りのセックスを彼女に暴露される。

「確かあんときあんたは『実は俺。こう見えてMやねん』とか言ってたね。いや、バリバリMに見えるって。M顔やしM字ハゲやし。それにウケんのが『足コキして。頼むから』とか言ってきて、一回目からそんなこと頼むかね?」

「セックス中もよう喋るし、無駄に煽ってくるし、完全にエロオヤジ。そのくせ、気にしいで、でも終わったあとは急に我に返ったように偉そうにふんぞり返ってんのよ。ベッドで、今みたいに煙草ふかしながら、『仕方なく抱いてやった俺』みたいな顔してんの。もうトータルでめんどくさい」

「でさ、二人きりやとキショイ赤ちゃん言葉になんのよ、この顔でよ? うん最悪。最近でも店に来て囁くんは『ほんとは俺のこと好きなんやろ』とか『徳山にも悪いことした』とか『二人だけの秘密やからな』とか、あげくに『もっと自分に素直になれ』とか、なんの小芝居やねん。こっちはスポーツ感覚で一回発散したかったってだけやのに、もうしつこいのなんのって。しかもそれを自分から言いふらすって。アソコも小さいし。足コキって! わたしゃ両手の不自由な陶芸家か。……ん? まだ思い出せない?」

 

 あまりに類型的な人物たち、そして実のところ、彼も彼女も、そうした既に「ある」人たちを決して越えることができない。

 彼女の書棚に並ぶのは専ら、「『殺人』『残酷』『地獄』『猟奇』『拷問』『虐殺』といった、おどろおどろしい文言」。ベッドサイドのピロートークで、本をめくりつつ彼に聞かせるのは例えばジル・ド・レについて。「あのジャンヌ・ダルクと共に戦ったフランスの元帥さんで、当時フランス随一の財産持ちやったらしいです。彼はある意味、先駆者として人気モンなんですよ。彼は、たくさんの少年を、選んで美少年を、たまに女の子も、誘拐して凌辱して、なぶり殺しにしました。下は7歳から。800人からそれ以上殺したって当時の裁判記録には残ってるそうです。少年の腹をかっさばいて腸を取り出して、そこ目がけてみんなでマスターベーション大会とかしたそうです」。

 マルキ・ド・サド的。澁澤龍彦的。逸脱という既存のパターンを彼女は決して逸脱できない。

 そして少なくとも、彼女はそれを知っている。

「老いてしまう前にも人間には必ず飽きが来る。欠点が見え、その欠点がだんだんと許せなくなり、セックスのパターンにうんざりし、トイレの音にがっかりし、新鮮味が涸れる。老廃物ばかりが溜まる生活。ごまかしの愛。ごまかすための言葉。次に相手がどんなことを言うかだいたい知れて、型に嵌まった遣り取りに疲れて、無難な唯一の道として、沈黙する。会話がなくなる。一緒にいる時間を少なくなる工夫をする」。

 

 何もかもが分かり切っている、だから「死にたくな」る。

「電話し」たところで、されたところで、何も変わりやしない。

 すべてのコミュニケーションはbotで書ける。

 なのに、もしかしたら、その声には何かがある。

「生命力って本当にすごいと思う。すさまじいものやと最近特に感じる。なんだかやけに懐かしいことでもあるし、生命の本質はこの懐かしさにある、とも思う。――ま、だからどうや、って話やけど」。

 緩慢な自殺を欲しただろう彼女は、そして同時に、それに寄り添うパートナーを求めた。そこに必然はない、あるいはそれを破綻とも言う。現実としては、彼女と同じフォルダーに収まるだろう『卒業式まで死にません』も『八本脚の蝶』もただひとりでこの世を辞した。「感動」や「物語」を厭う彼女、すなわち、他者なる美辞麗句の本質が動員以上のいかなる意味をも持たないことを知悉する彼女は、にもかかわらず彼を求めた。「ない」という特性に由来する狂言回しの猿、ナレーターという小説進行のためのギミック以上の機能を彼に求めた。

 変われないこと、「懐かしい」こと、シシュポスの地獄の淵をさまようこと――本書が謳うのは死についてではない、紛れもない、「生命力」についての試論だ。