そんな彼なら捨てちゃえば?

 

 魯肉飯。

 台湾のB級グルメとして今や日本でも広く知られる。読み方を尋ねれば、まず間違いなくルーローハン(ファン)と返ってくる。しかしそれは中国語読み、台湾語ではロバプンと発音するらしい。

 グーグルにかけてみる。ルーローハン、499000件。ローバープン、158000件。ちなみにロバプンだと1400件、専らこの小説にまつわる記事が並ぶ。

 

 主人公の桃嘉はかつて画家を夢見た日本と台湾のハーフ。就活に挫折、大学卒業とともにサークルの先輩の商社マンと結婚、間もなく1年を迎える。「それなのに桃嘉はいまだに、『柏木』という姓はあくまで聖司のものであって、自分のものではないような気がする。そのことが少し後ろめたくなる」。

 何とも居心地が悪い、その理由は明らかだった。一度だけ、ロバプンを作ったときのこと、六角の香りがどうやらお気に召さなかったらしい、「桃嘉はちょっとクセが強かったかな? とおそるおそるたずねる。聖司は、こういうの日本人の口には合わないよ、と苦笑いしながら箸を置く。あとは桃嘉が食べてよ、俺は鯖缶でも開けるから、と言ってから、こういうものよりもふつうの料理のほうが俺は好きなんだよね、と言った」。

 口に合うとか合わないとかではない。彼は「自分にとってのあたりまえは、誰にとってもあたりまえなのだと信じて疑わない人だった」。「ふつう」をすべて「ふつう」と押し通されてしまえば、そこにはもはや通わせるべき会話などない。

 

 会話が成り立たない。

 桃嘉にも過去に覚えがあった。めんどくさい思春期をこじらせた小6女子は、台湾出身の母が何を聞いてもつっけんどん、塾や学芸会を口実に、食事にもろくに手をつけようとしない。やつれゆく娘が言うことには、おむすびならば食べられるかも。母はとっておきの干し肉を具にするも、食は進まない。曰く、「梅干しのおむすびなら、入るかも」。母は自らのルーツを拒まれたのだと思う。

 小4の授業参観からの帰路、桃嘉は激情に駆られて言った。

「なんでママはふつうじゃないの? せめて外にいるときはふつうのお母さんのふりをしてよ!」

 

 宇野重規保守主義とは何か』からの孫引き。イギリス政治思想の重鎮、マイケル・オークショットが言うことには、人間の人間たる所以とは、「会話に参加する能力」に他ならない。「会話で大切なのは、複数の話し言葉が行き交うことである。多くの異なる言葉が出会い、互いを認め合い、そして同化することを求めないのが会話の本質である。一つの『声』が他を圧倒してしまうのは、会話ではない」。

「ことばがつうじるからって、なにもかもわかりあえるわけじゃないのよ」。

 あるいはオークショットの言には、エスタブリッシュメントに労働階級とやらのことなんて分かるわけがないではございませんか、という以上の含意はないのかもしれない。ただしここでは目をつぶる。複数の「ふつう」があることを知る、そしてそれらが共約性を持ち得ないことを知る、そこにこそ「会話」の機能はある。

 話すこと、すなわち、放すこと、離すこと。

 誰しもがそれぞれの異邦人として、互いに生きる、違いに生きる。

 

 やがて台湾の親戚を訪ねる桃嘉は、その食卓で「会話」に触れる。

「ほんものの台湾人である伯母たちに囲まれていると自分はやっぱり台湾人とは程遠いと桃嘉は感じる。何しろ……相槌を打つのでやっとなのだ。たとえ、伯母たちが皆とびきりおしゃべりなのだということを差し引いても。次第に桃嘉は、中国語と台湾語で交わされる会話に無理やりついてゆかなくてもいいような気持ちになる。日本語ならばピイチクパアチク、台湾語ならギリグァラギリグァラという擬声語で示すのにうってつけの、伯母たちの会話を音楽のように聴くのはなかなかに面白かった」。

 何かを伝えることですらない、ましてや論破することではない。「会話」が織りなすめまいを誘うハレーションの狭間で、「会話」そのものを自己目的化する、「会話」の中にあえて「会話」以上のものを求めない。

 桃嘉はそこに安全基地secure baseを見るだろう。自らの確たるプラットフォームを持たざる者にできることといえば、自身の「ふつう」を絶対化した金切り声をあげることだけ。論破以上の何を目指すこともない彼らが「会話」に戻れる日など、生涯訪れることはない。人間であることをやめた何かの、哀れな肖像だけがそこにある。