人倫の形而上学

 

 それは野放しのハードドラッグがもたらす、ごくありふれた日常の一コマ。風采の上がらない中年男が、贔屓の野球チームが見どころなく敗れた腹いせに自棄酒を煽り、酔いに任せて自販機を蹴りつけ、さらに止めに入った店員を殴りつける。

 ところが、現行犯逮捕されたこの彼、自称スズキタゴサクが取り調べの席で妙なことを口走る。

「ただわたし、昔から、霊感だけはちょっと自信がありまして」

 程なく男の「霊感」通り、秋葉原で爆発が起きたとの報が届く。

「そして私の霊感じゃあここから三度、次は一時間後に爆発します」

 果たして東京ドーム近くにて「霊感」は再び成就する。

 もしや超常現象か、などと真に受ける者はいない。どこからか噂を聞きつけた警視庁から刑事が送り込まれる。古典的な落としのテクニックで正面からこの「文無しで自堕落で良心が麻痺した中年男」の口を割らせようにも、のらりくらりとかわされて終わるのは火を見るよりも明らかだった。ところが、スズキの方から妙なゲームを提案してくる。

《九つの尻尾》、「とても簡単な遊びです。いまから質問を9つします。刑事さんはそれに答えてくれたらいいです。そしたら最後に、わたしが刑事さんの心の形を当ててみせます」。

 向かい合う刑事は算段を弾く。「ここでコミュニケーションの幅を狭めるのは得策ではない。対話を深め、情報を引き出す。そう決断した以上、粛々と付き合うまでだ」。

 

 そのゲームに乗った刑事は、やがてスズキの思惑通りに現れた自身のグロテスクな「心の形」を前に愕然と「尻もちをついた。もう、何も考えられない」。

 別のある刑事は常日頃から「満員電車でゲップするおっさん、コロンのきつい女、コンビニで箸を入れ忘れる金髪のニイちゃん。どいつもこいつもアメリカ毒トカゲに咬まれちまえって心から願ってる」。

 また、ある刑事は、いつしか自分から「ふつうの正義」が消え失せていることに気づく。そうして日々を「決められた手続きを決められた仕様でこなす。与えらえた指示に従う。適当に力を抜」いてやり過ごす。爆弾テロを前にしてすら「不思議なほど、憤るものがない」。

 爆風に巻き込まれた同僚を前にある刑事は思う。「公園の被害者だと? そんなのはどうでもいい。ほっておけ。それより矢吹を助けてくれ。お願いだから」。

 すわ我が子が爆発に巻き込まれたら、とある刑事は想像をめぐらせずにはいられない。「自分が警視総監だったら、あるいは長官だったら、すべての警官を娘の捜索にまわすだろう。あとから浴びる批難など関係ない。どれだけ怪我人があふれていても、治療が渋滞を起こしていても、権力を総動員し病床を確保しておくだろう。どんな怪我にも対応できるよう、医師も看護師も待機させ、手術室も貸し切りにして」。

 

 この小説内の群像たちに限らない、誰しもが、少なからず思っている。

「いま、この街に隕石が落ちてしまえばいいのに」と。

 そして、セグメントにより規定された確率に促されるまま、誰かしらは令和x年のテロリズムの実行へと至らずにはいない。まさか彼らローンウルフはスズキタゴサクよろしく、サタンやメフィストフェレスの系譜に沿った誘惑を人々に向けて突きつけることなどしない、クイズをもって犯行を予告したりもしない。手の込んだ爆弾をこしらえることもなければ、毒ガスを仕込んだり、銃を密輸したりもしない。皮肉にもリアルは既に教えてくれている、ジョーカーになりたければ、トラックで人ごみに突っ込むなり、ガソリンに火を放つなりすればいいのだ、と。その大半はある日突然、特定の誰を狙うこともなくノープランで包丁やナイフでも振り回す。自殺願望の一表現としての「もういいや」を超える動機など、いくら問われても、彼らには答えようがない。

 暴挙を受けて、この箱庭世界においても、メディアとやらは被害者をめぐる安っぽい感動ポルノを垂れ流すだろう。そうして消費者たちは怒りに駆られる、こんな犯人など殺してしまえ、と。彼らはその瞬間芽生えるだろう自らの義憤や善良を信じて疑わない、しかし実のところ彼らが表現しているものといえば、せいぜいが「ゲップするおっさん」や「コロンのきつい女」へのインスタントな憎しみと同種のものでしかない。

 なぜなら、両者は所詮、合わせ鏡に過ぎないのだから。

「彼らには、自分しか存在していない。自分と自分以外はすっぱり切り離されていて、透明な壁ができていて、だから他人も、社会も、未来も、ありがたみなんかこれっぽっちもないんです」。

 そこに同情や共感なる語の余地はない。

 ネタバレどうこうを言う前に、トリックや真相というミステリーとしての基本要素など、少なくとも私にとってはサブ・ストーリーの域を超えない。この群像劇が鮮やかに描き出しているのは、液晶という名の水面を睨み続けることしかできない、「自分しか存在していない」現代版ナルキッソスたちの哀れな近未来に他ならない。

 

 筆者は辛うじての隘路を本書に刻む、すなわち「差出人不明の命令」を。

 おそらく、その事態はエマヌエル・カントの定言命法に限りなく似る。

 誰かのために、何かのために――感性をもって縛られた現実から引き出されるかくなる倫理など所詮、条件づけが解体されて失うものをもはや持たない「彼ら」の世界では無効化を余儀なくされる。

 誰だって知っている、「彼ら」には目的どころか手段としてすらみなされるべき論拠などひとつとしてないことを、すべて現実などいかなる参照にも値しないことを。だからこそ、神をでっち上げることすらできないこの時代に、理性に基づく想像力から組み上げられた麗しき虚構をクズすぎる現実へと落とし込むことをもって、その現実を少しでもまともなものへと近づけるべく粉骨砕身する。だからこそ、「差出人」は顔を持たない、名前を持たない、具体なき「不明」な存在であらねばならない。

 

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