Kawasaki Drift

 

 本書は月刊誌『サイゾー』で20161月号から174月号にかけて連載した「川崎」に大幅な加筆を施し、1712月に単行本として刊行された。……企画が立ち上がった経緯について簡単に説明しておくと、川崎を舞台に選んだのは、本書の中で何度も書いている通り、同地で15年、中一殺害事件をはじめとして、陰惨かつ、現在の日本が抱えている問題を象徴していると思える事件が立て続けに起こったからだ。とは言え、取材を通して事件の“真相”を明らかにしたかったわけではなく、事件のバックグラウンド=“深層”に入り込みながら、そこに差し込む光のようなものが書ければと考えた。そして、そういった着想をもたらしてくれたのは、……川崎から登場したBAD HOPという類稀なラップ・グループの存在にほかならない。

 別の言い方をすれば、BAD HOPのほかにこれといった取材対象の当てはなく、連載は見切り発車で始まった。その後、出会いが出会いを呼ぶような形で魅力的な人物たちと知り合っていったわけだが、……本書に一冊を通した起承転結のような明確な構成がなく、短編集、もしくは文字通りルポルタージュ(現地からの状況報告)の体裁になっているのはそういった理由である。しかし、川崎で生きる多様な人々を描くためには、それをひとつの物語に押し込むのではなく、このような手法を採用するのがベターだったと自負している。

 

14smoke weed 15で刺青

16で部屋住み で傷は絶えずに

 

オレの生まれた街 朝鮮人、ヤクザが多い

幼い少女がチャーリー 絶えねぇレイプ、飛び降り

金のために子どもたちも売人か娼婦へ

生きるために罪を犯す罪人かホームレス

 

BAD HOPStay

 

 

 読むにつれ、当惑を催さずにいられない。本書に描き出されるのは、他国から漏れ聞こえる、半ば都市伝説のようなスラムの光景が寸分たがわぬかたちで本邦に具現化された街としての川崎。貧困と暴力と薬物とセックスで、もはや社会システムの底が抜け切ったこのシーナリーは、あくまで例外事例を膨らませた誇張に過ぎないのか、逆にむしろ活字にできるレベルにまで希釈されたミニチュアに過ぎないのか。

 やがてその縮尺の等身大性を知らされる。

 ある支援施設のスタッフからのヒアリング。

「昔だったら底辺からなんとか這い上がれたのが、今は未来をイメージすることすらできない。子どもに、『将来の夢は何?』って聞けないですもん。……だから、『将来の予定は何?』って聞くようにしてるんです。“夢”はあまりにも現実味がないけど、“予定”だったら思い浮かぶし、人は“予定”があればとりあえず生きていけますから」。

 このくだりにはたとオーバーラップする光景がある。

「一般人にとって『未来』という言葉は平均して4.7年先のことを意味しているのに対し、(オピオイド)依存症者にとっての『未来』はわずか9日先のこと」(B.メイシー『DOPESICK』)。

 このひそみにならえば、川崎には9日先の“予定”はあっても、4.7年先の“夢”はない。

 

「悪さより、こっちのほうが楽しいじゃん」。

 その街であえて“夢”を語る、突破口のひとつが、例えばラップだった。

 自らがくぐり抜けてきた光景をことばに変える。私小説を紡ぐことで、それまでの「私」ならざる「私」へと生まれ更わる。

 古今、薬物にせよギャンブルにせよ、依存症からの回復プログラムとして広くその有益性を認められたアプローチがある。それは措置入院でも、専門家によるカウンセリングでもなく、当事者同士を集めて互いにその経験について語らせること。苦しみを己に固有のものだと信じて込んでいたその者たちが、ことばという回路に導かれて、心象風景を通わせる。自画像に限りなく似た鏡の中で、ことばをシェアする、リアルをシェアする、そうしてでき上がった共同体はやがて“夢”をシェアする。

 そのヒーリングを川崎に見る。現実の貧しさはすなわち、ことばの貧しさに他ならない。自分についてしか知らない、だから自分についてしか歌えない、そして彼らはことばを知って、外部への新たなハッチをこじ開ける。

 更‐生すること、紛れもなく、通過儀礼の原型、表現の原型がここにある。