死にたくなったら電話して

 

「私」こと三ツ橋由嘉里は27歳の銀行一般職、恋愛経験ゼロだが一応婚活らしきことをしていないこともない、「それぞれの焼肉の部位がイケメンに擬人化してミノくんとかトモサンとかカイノミンとかがライバル心と仲間意識と自尊心とコンプレックスとの間でゆるっと仲良くしたり仲違いしたりする日常系焼肉漫画」である『ミート・イズ・マイン』オタ。同僚から合コンに連れ出されるも所詮は数合わせのかませ犬、腐女子アウティングにさらされて自棄酒をあおり歌舞伎町の路上で酔いつぶれたところを通りがかりのキャバ嬢、鹿野ライに助けられる。彼女は言った。

「私死ぬの。だからお金あげるよ……理由は分からないけど私はこの世界から消えなきゃいけない。そんな気がするとかじゃない。私は消えなきゃいけない。生まれた時から決まってる、それが私にとってこの世界で唯一無二の事実」

 由嘉里は反発する。

「私は認めませんよ人は生きてなきゃだめです。死んだら全部終わり。私は自分が大切な人にはできる限り長生きしてもらいたいです」

 そうして二人の奇妙な同棲生活がはじまる。

 

 登場人物の誰しもが一方通行のすれ違いをひたすらに繰り返す。

 どうしたわけか、合コンで由嘉里に興味を持った男にデートに誘われるも、「一緒に時間を過ごすのが苦痛だった。ストレスだった。仕事の内容、好きな食べ物、休みの日何をしているか、宝くじが当たったらどうする? などの特に話すことがない男女が話すテーマを話すのが苦痛だった」。LINE上での言い回しから肉の焼き方に至るまで、何もかもが彼女には生理的に受け付けない。でも彼はそのことに気づく素振りすら見せない。

 母もまるで同じだった、「結局彼女は、女はコミュニケーションの生き物で、恵まれた人間関係さえあれば、幸せだと思っている」。「退屈な世界に生きている……退屈な想像力しか持ち合わせていない」彼女が自分にとっての常識の非自明性を疑う日など、生涯訪れることはない。

 しかし同時に由嘉里は気づく、自分がライに寄せている思いもまた、彼らの限りなき相似形をなしていることに。

 

 いのちだいじに。

 こんな命題がリアルとやらから引き出され得ないことくらい、誰だって知っている。

 赤信号を横切ろうとする救急車にもはや道を譲ろうともしない自動車の運転手が、いざ身内にコロナの火の粉が降りかかれば病院の窓口で大立ち回りを演じてみせて、かと思えば喉元過ぎれば熱さ忘れてただの風邪と喚き散らしては率先してGOTOに繰り出す。こんなクズども、つまりはごく標準的な一般大衆の生命に尊厳なんてあるはずがないことくらい、誰だって知っている。イディオムはきちんと教えてくれる、すべて人間をお連れすべきgo toの先にはhellしかない、あってはならない、それくらいのことは誰だって知っている。

 そしてそんな現実とやらが、既にサンプリング済みの消費行動データセットへと変換可能、変換不要な彼らのためにあることも。

 そもそもクズ過ぎる現実に参照に値するものなどひとつとしてない、だからこそフィクションを志向する。尊厳ある人間なんてどこにもいない、だからこそ人間の尊厳という真っ赤な嘘をでっち上げる、そのクズ過ぎる現実を少しでも変えるために。ところが、今日ではもはや小説の世界ですらも、これしきの命題を掲げることをためらわずにいられない。

 ある面で、この作品は『罪と罰』の好対照をなす。人を殺してはならない、この命題を理解できずそして侵犯したラスコーリニコフを変えたのは無垢なる娼婦ソーニャ。論理を超越したミューズの降臨を前に、凡庸なる人間はただそれを倫理と受け入れ、ひれ伏す他ない。割り振られた設定でいえば、由嘉里がラスコーリニコフで、ライはソーニャ、前者が後者を媒介にメタモルフォーゼを起こすことはあっても、その逆は成り立たない。

 そして案の定、ライは当然のように由嘉里のもとから姿を消す、つまり、最後まで由嘉里はライを繋ぎ止める論理をひねり出すことができない。

 ライもライで、「実験」をいくら重ねたところで、誰も何も変わらない、変わりようがないことをただ知らされて終わる。

 結局、何が起きる? 物語なんて生まれようがないのだから、ひたすらのフラットな日常系に萌えるくらいしかすることがない。

 

 別にそれでいいじゃん。

『ミート・イズ・マイン』のリアルイベントに参加した由嘉里は興奮交じりに語り倒す。

「もうね、行って良かったじゃないですよ。生きてて良かったですよ。生まれてきて良かったですよ。私を形作った精子卵子にひれ伏したいですよ。本当に心から、永遠にこの時間が続けばいいのにって思ってました。これってきっと恋愛感情の一種なんでしょうね。私には遠いものと思っていたし、好きな人には遠くから眺めていたいって、触れ合ってはいけないって思ってたけど、間違ってました。私は勇気が出なかっただけでずっと好きな人に会いたかったし、実際握手会に当選したらその一瞬に何を話そうって考えてたんです。まあ当選しなかったんですけどね。何を話すつもりだったかは秘密です。当たり前じゃないですかそれはトップ・オブ・プライベートです。この言い方間違ってますかね? 今もう幸福が駄々漏れてその勢いで他の大切なものも同時に流れ出して死んじゃってもおかしくないほどです」。

 このビート感にニヤニヤできれば、それ以上の何を持ち帰る必要があるだろう。

 ただし私たちは同時に知っている、この文字に肉声をまとわせた瞬間に、それがただのウザくてキモい何かに変わってしまうことを。

 2.5次元を熱弁できる、つまりは退屈なこじらせ方をしただけで本質的には3次元で末永くお幸せにな由嘉里と、そもそもにおいて2次元的な存在でしかないライ。

 いや、やっぱりよくなかった、身体性って、つまらない。

『ミート・イズ・マイン』、すなわち擬人化された牛の死体をめぐるカーニヴァル、人間は他なるものの肉、わけても人命を刈り取り貪るその瞬間に唯一、至高のエクスタシーで満たされる。

 すべて身体は、ただ殺されるためにある。

 

 ページを閉じてしばらく、なんとなく、記憶の扉が開くに任せる。

 例えば漱石『行人』のラスト。

「兄さんがこの眠から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします」。

 あるいはシェイクスピアのおそらくは最も有名なフレーズ、to be, or not to be, that is the question

 彼らがこの世に抱くいたたまれなさは、ひとえにことばに由来する。なまじことばを知ってしまったことで相容れぬ現実との齟齬を引き起こし、彼らはひたすら煩悶する。

「消えているのが私の本当の姿」。ライはすなわち、ことばそのものを寓意する、それは現実と決して交わり得ないものとしての。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネによる福音書1:14)。

 この小説においては、そのことばの側が、いのちだいじに、を率先して無効化する、現実の側からは決して導かれることのないその命題を。

 

 なんとなく、私の推しの話でもしてみる。

 間もなくメキシコで開催されるサッカー・ワールドカップ、私の注目はIan Nash、神出鬼没のポジショニング、骨惜しみなき献身性、大一番で決定的な仕事をする主人公補正、と誰がどう見てもMichael Jones以来の世界最高の左サイドウインガー。右サイドを切り裂き倒すSteve Powellの再来、Mike Wadeと奏でる柔と剛の両翼デュオはもはやチート以外のなにものでもない。イングランド唯一の不安材料といえば、クラブではCBしかやっていない、しかもパワープレイ適性も高くないJustin Whiteを頑なにストライカーとして起用し続ける脳みそのバグった監督の采配だけ。アルゼンチンのワンダーキッド、Juan Manuel Lopezからも目が離せない。

 いや、『Football Manager』の話ですけど何か。

 ティーンエイジャーから手塩にかけて育て上げた子どもたちが、ワンタッチ、ツータッチのフラッシュパスを一糸乱れずピタピタ繋いであっという間に敵陣深くに迫り、そこまでウルトラC級のアクロバティック・ムーヴをかまし続けたそのフィニッシュ、神トラップで相手キーパーをかわして、あとは無人のゴールに流し込むだけの簡単なお仕事でバロンドーラーが涼しい顔してポストにぶち当てる、こんな様式美にアドレナリンとコルチゾールを沸騰させた後では、リアルサッカーなんてトロ臭すぎてガチで3秒耐えられない。

 レギュレーションの設計に失敗したこの超ロースコア・ゲームにおいては、フィールド上でほぼ何も起きないまま90分がいたずらに過ぎていく。実況のバカ騒ぎとは裏腹に、ほとんどすべてのプレイがただの0.01も得点期待値を揺り動かすことがない、つまり何の意味もない、まるで現実の縮図をあらわすように。そんなみすぼらしい空回りにどうして目を向けるべき理由があるというのだろう。

 どんなシーンを見せられても、もう何も感じない。

 

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