台湾に住む人々の大部分は、福建各地からの移民にルーツを持つ。さっぱりとして甘い福州料理と、油が重く塩気の強い福建西部(閩西)の客家料理とが、しぜんと台湾の味わいの基調を構成するのにかかわっており、これらとともに福建南部(閩南)の料理はとくに重要なものだ。福建南部の料理は調味料を重んじ、漢方薬材を料理に取り入れることもままある。……
台湾の食といえば小吃に重きを置く。そして台湾の小吃の大部分は、経済的に貧しかった時代に由来するものだ。経済的な地位の低さと生活の条件の厳しさが、懸命に労働し倹約するという食文化を形作っていった。……
日本料理は、台湾における食文化が国際化した最初期の痕跡に当たり、今では台湾の伝統的な味わいとして内面化されてしまっている。日本は台湾を50年にわたって統治していたことから、台湾人はしぜんと上流社会にあたる日本の生活様式をまねるようになり、だんだんに和風とも中華風ともいえない料理の形式が発展してきたのだ。……
国共内戦を経て、1949年前後におよそ121万人が国民政府とともに突如として台湾に移住してきた。これは中国の八大料理体系が一挙に台湾に押し寄せたことにも等しく、台湾の食文化に最も大きな変化を呼びこむことになった。……
今となっては、かつての外省人の故郷の味は、すでに内面化されてむしろ濃厚なまでの台湾の味となっている。私は大陸のどの地域にも、台湾の客飯の滋味に迫るものを見出しえていない。
台湾メシと日本人が聞いてまず連想するだろう筆頭のひとつ、魯肉飯。
しかし大陸の人間からするとこの表記には若干の違和感があるらしい。曰く、音を同じくする「魯」ではなく「滷」の誤りではなかろうか、と。意味から言えば、「滷」は「材料を煮汁の中に入れ、長時間にわたって火を入れる中国料理の伝統的な技法」で、一方の「魯」を漢和辞典で引けば「魯鈍」の用法そのままに「おろか」で「にぶい」ことをいう。なるほど前者に理があるらしいが、一度定着してしまったものは仕方ない。もっとも筆者に言わせれば、南部での呼称、「肉臊飯」(バーソープン)の方がしっくりと来るらしい。
この国民食、「多くの人々が、やっと歯が生え出したころから食べ始め、歯が抜けすっかり入れ歯になるまで、 肉臊飯を好んで飽きることがない」。それは単にどこでも食べられるから、というだけではない。「おそらく、台湾に早くから住んでいた人々が生活が貧しく苦しかったころに、豚肉をじゅうぶんに使い切るために、肉のかけらまで醤油で煮込み、飯の進む具に仕立てたのだろう」、そんな記憶の痕跡を一杯のライスボウルは留めずにはいない。かの地にて「滷」はいつしか「魯」になり、台湾という共通体験を触発せずにはいない。
「阿給」という、淡水で広く親しまれる小吃があるらしい。「作り方は油揚げを開いて、油葱酥と肉そぼろとともに炒めた冬粉(春雨)を詰めて、ニンジンの細切りを混ぜた魚のすり身で口をふさいで、蒸し上げ、タレをつけて食べる」。そしてこの料理、「阿給」と書いて「アーゲイ」と読む。その発音は、日本の「揚げ」に由来する。
「甜不辣」なる、屋台でなじみの小吃があるという。甜麺醤の「甜」に辣油の「辣」、字面だけを追えば、甘いけど辛くない、という何も言っていないこの感じ、でもそのままつないで発音すれば、ティエン-プー-ラー、つまり「てんぷら」、九州の方で専らそう呼ばれる魚のすり身を揚げた方のあの「てんぷら」が、他の具材とともに鍋で煮込まれて供される、要はおでんそのもの。まさか偶然のはずはなく、日本から持ち込まれたボキャブラリーに当て字しただけで、先の「魯」と同じく文字それ自体にさしたる意味は込められていない。もっともダシを含ませるというよりも、味はタレや調味料でつけるものらしく、このあたりもポルトガル発日本経由台湾着の独自の進化形態を果たす。
食が反映させるのは、何も国民的な記憶ばかりではない。
がんを患い化学療法を受けている妻を連れての家族旅行の最中、彼女が激しい腹痛を訴える。病院に運び込むも、医師の診断はただの食べ過ぎ。夫はその周辺を散策し、鴨賞なる名物を買い求め、帰宅後、家族の夕食に供する。「葉ニンニクを細かく切って、レモン汁とゴマ油を少々垂らし、阿万之家の鴨賞を和えた。サトウキビで燻したアヒルの肉は、風の祝福のように感じられた。疑いと恐れを吹き払い、落ちついた軽い会話をもたらしてくれた。私たちはありえたかもしれない危険と、食いしんぼうの病人を冗談のタネにした。
生活することの喜びは、一口鴨賞を噛みしめたときと似ている」。
容赦なく進行する病の中で、妻に癒しのひとときを与えたのは排骨湯だった。「スペアリブを使ってスープにし、そこに大根を加えるだけ」、そのシンプルさは「文学の創作にも似ている。平凡なものが手をつけると、いつも言いたいことが多すぎて文が乱れてしまう」。
終わりが近づく彼女の病室に茶葉蛋(味つけ卵)を持ち込む。「食べたいかい、いらないか。口が言うことを聞かなくなっていて、たぶんもう飲み下せないのだ。急に口の中の茶葉蛋が苦く感じた。ベッドの上で眠る妻をじっと見ていると、ふと知らない人のように思えた」。
夫は思い出す、ほんの2年前、出先で「夜に妻と散歩に出て、道で茶葉蛋を買って歩きながら食べた」日のことを。「卵の殻のひび割れは一種の暗喩だ。人生の傷跡もまたしかり」。
この紙の束をかじったところで、まさか蚵仔煎の味もしなければ、臭豆腐の匂いもしない、四臣湯の温もりも立たなければ、冬瓜茶のように渇きを癒してくれることもない。
でも私たちは本書を通じて知るだろう、食卓を囲むとはすなわち、記憶をともに分かち合う行為であることを、あるいはそこに座することのない顔や名前の残らぬ先人たちを含めて。ペーパー越しに、その末席に迷い込んだかのような錯覚を時に味わう。
このテキストは、ひとりせっせと朝早くから贔屓の店に通い詰める食道楽の夫が妻に浮気を疑われる、そんな物語でもある。そうしてたまには孤独にグルメを決め込んで、それでもなお本書はあくまで、誰と食べるか、をめぐって著される。何を食べる、どこで食べる、そこに幸福が横たわることは否定しない、でもその前に、誰かと食事をともにする、その日々の記憶を愛おしむ。皿に載らないその経験が筆者にとっての「台湾の客飯の滋味」を代え難きものにする。
奇しくも英単語companyの由来はラテン語com-panis、すなわちパンをともに食らうこと。カタログスペックを下調べしてこじらせる前に、そんな気の合う誰かとともに、ふらっと店先で匂いに誘われて、いつの日か、おいしいごはんが食べられますように。