Don't Knock My Love

 

 本書の目的は、日本の戦後史のなかにドリフを位置づけ、日本人にとってドリフとは何だったかを明らかにすることである。その際、一つの軸として演劇史の視点を導入したい。一般的に言えば、ドリフはテレビのバラエティ番組で活躍するコントグループであり、演劇のイメージはないだろう。だが、『〔8時だョ!〕全員集合』はテレビ番組であると同時に舞台の生中継であり、メンバーもドリフの笑いは舞台が基本だと語る。また、志村けんは『全員集合』終了後も舞台に立つコメディアンの矜持を持ち続け、晩年は舞台に活動の拠点を移して、「喜劇王」と呼ばれるようになった。……

 本書では、演劇史のなかのドリフを考えるにあたり、演劇と国民/大衆の関係に注目している。日本の近代演劇は国民/大衆に対して、いかにして健全な娯楽を提供するかという問題意識をもっていた。新国劇が流行させた剣劇/チャンバラや、小林一三が育てた宝塚歌劇は、そうした実践のひとつのかたちである。ドリフもまた、高度経済成長期以降の日本において、常に大衆と向きあってきた。日本の近代演劇史の文脈にドリフを接続することで、志村けんはなぜ最後の「喜劇王」なのか、私たちは志村けんの死によって何を失ったのかが明らかになるだろう。

 

 その発足からして既に「遅れてきた青年」たちの集いだった。

 ナベプロのはじまりも、ホリプロのはじまりも、進駐軍だった。言語を解するでもない彼らの求めに応じて音楽を提供する、そうして焼け野原から戦後日本の芸能界は再編された。「言葉が通じないからこその、音楽をともなった身体的な笑い」を原点に培われたそのアプローチは、デビューの段階においてさえとうに古臭いものとなっていた。

 本書を拠点にザ・ドリフターズの足跡をたどるとき、「間に合わなかった」という、いかりや長介悔恨のこの述懐は、呪縛のようにつきまとい続ける。

 

 コミック・バンドのコミック・バンドたる所以は、「演奏を完璧に仕上げてから、テンポをはずしたり変な音を入れて笑いに変える」、その作り込みにこそある。一糸乱れずできるからこそ、あえてのほつれが引き立つ、楽器を手にすることがなくなってなお、ドリフはどこまでも自らのルーツに忠実であらんとし続けた。

 テレビの時代と同期化するように台頭した彼らは、にもかかわらず、このメディア特性とはとことん相性が悪かった、はずだった。テレビという媒体は「次に何が起こるか分からないとき、……最も人を惹きつける」、このことを決定的に知らしめたのがあさま山荘事件だった。「映画のまね」でもなく「舞台のまね」でもなく、「ドキュメンタリー」性にこそテレビの本領はある、それをいち早く発見した萩本欽一の行き着いた結論は「テレビにおいて最も優れているのは素人っていうこと」だった。そのエッセンスを『全員集合』の裏番組としてぶつけ、そして『欽ドン』は成功を収める。

 ところがその時代に、ほぼ毎週が生放送の「舞台のまね」、いや観客を招き入れた舞台そのものをドリフは全力で演じ続けた。ハプニングやアドリブとはおよそ対照的な作り込まれた空間は、本来ならばいかにも「遅れてきた」ものであって、萩本らの台頭をもってその短き春にいよいよ終止符が打たれたかに見えた。

 そんな彼らに起死回生をもたらしたのは、やはりこれまた「遅れてきた青年」、志村けんだった。コミック・バンドとしてのアイデンティティは、楽器を演奏できない志村の加入をもって事実上終わりを告げた。それはつまり、いかりやという絶対的な指揮者のもとでの「アンサンブルの笑い」の終わりでもあった。しかしこの発掘された才能が、ドリフを瞬く間に換骨奪胎していく。「東村山音頭」、「ヒゲダンス」、「カラスの勝手でしょ」――「この時代の『全員集合』には、世界的に見ても最先端のサウンドが鳴り響いていた」。いかりやのジャズから志村のブラック・ミュージックへ、ドリフの根底にはいつだって音楽が流れ続けていた。

欽ドン』の猛追はしのいだ。しかし、次なる奔流に抗うことはできなかった。ドリフのコントのベースにあったのは「動きによるドタバタ喜劇」、対して80年代が求めたのは「言葉の笑い」、そのアイコンに座したのが、『オレたちひょうきん族』だった。奇しくもそれは、かつて一家に一台だったテレビが、一部屋に一台へと変わりゆく端境期でもあった。「兄さん姉さんパパにママじいちゃんばあちゃんお孫さん」が茶の間で同じ画面を見て笑う、その時代がシャットダウンした瞬間に、同じセグメント間で共有可能な「言葉の笑い」さえあればいい、そのことを漫才ブームが発見した瞬間に、ドリフターズの歴史的使命はついに終わりを告げた。

 

 こうした時代性批評としても、本書は非常に秀でている。

 しかしそれ以上に、志村けんという極めつけの「遅れてきた青年」のパーソナル・ヒストリーとして、本書はたまらなく胸を打つ。

『全員集合』がこのスターの開花をもって生まれ変わる、つまりそれはいかりやから志村への政権交代を意味していた。絶対的なパターナリズムをもってグループを牽引し続けたリーダーの忸怩たる思いたるやいかばかりか、そうして方向性の違いから空中分解を迎えたにもかかわらず、志村は気づいてみれば、いかりやの影を追っていた。自身の名前という大看板を背負い、「共演者とスタッフをまとめ、あらゆる場面で決断していかなければならない。対等に相談できる相手はなく、いつも孤独だった」、それは奇しくもいかりやがかつてそうあったように。そしてなにより、笑いの志向性からして彼らは生涯にわたり師弟であり続けた。「ふたりは普遍的な笑いの存在を信じて疑わなかった。だから、ドリフが子ども向けだと言われると強く反発した。彼らは子どもから大人、若者から年寄りまで誰にでも分かる笑いを真摯に追求してきた」。

 1960年代のいかりやが既に「間に合」っていなかった路線を、志村は21世紀においてすら探求し続けた。「人々を同じ時間に同じ場所へ『全員集合』させることは、もはやできない」、その時代においてなお、志村は「大衆」を求め続けた。「娯楽によって大衆を統合するという発想が、時代遅れた。それでも志村は自らの意志で大衆と向き合い、全世代に受け入れられる普遍的な笑いを追求した。それは『全員集合』以来のドリフの思想である。21世紀になってもその思想を胸に抱き、その実現を自らの使命とした志村は、『喜劇王』を必要としない時代の『喜劇王』になった」。言い換えれば、社会がお笑いに「『笑われる存在』から『笑わせる存在』」を求めるようになってなお、「孤独」な志村は「笑われる存在」を夢想し続けた。つまりそれは、自らの信念のみをよりどころに幻の「大衆」統合の見果てぬ希望を追い続ける、無人の荒野を突き進むパターナリストの決意であった。

 

 それはあるいは、独善的ともいう。

 ドリフのコントの雛型は、絶対的なボスであるいかりやを他のメンバーがいかにいじるかにあった。その脚本を主導していたのは無論、いかりやその人である。そうすることで、彼は進んで自身を「笑われる存在」へと仕立て上げた。その正統後継者である志村は、例えば白塗りのバカ殿に扮することで、道化として「笑われる存在」を貫徹してみせた。

 翻って現代、「笑わせる存在」とはすなわち、他人を「笑われる存在」として吊るし上げる輩の別名にすぎない。彼らはその標的を笑い者にするのではない、笑い物にする。彼らは自他の境界の画然たることを信じて疑わない、そしてその安全圏から心おきなく他人を辱め、いたぶり倒す。そこに人格はない。レイプと同じ、レイシズムと同じ。自らを「笑わせる存在」になるためだけに、ドラキュラよろしく生贄の血を欲し続ける。そんな彼らは終生、損得勘定とマウンティングのポジション・トークの他に語るべきことばをひとつとして持ち得ない。「笑わせる存在」と「笑わせる存在」がフラットに幸福を分かち合う未来のヴィジョンなど、分断にとり憑かれた彼らには決して構想できない。そんな社会のニーズの隷属者たるソフィストどもを尻目に、いかりやと志村は「普遍的な笑い」というイデアにどこまでも忠実であり続けた。

 父権主義者の息子たちが、父を乗り越え、そして次なる父となる。終わらない父殺し、終わらないオイディプス、時代に取り残された「遅れてきた」者たちの系譜をたどる物語だからこそ、このテキストは時代を超えた普遍性を手に入れる。

 

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