「生理前のイライラ」はもはや日本社会の“常識”となっている。月経(=生理)についてほとんど何も知らない男性でさえ「生理前のイライラ」だけは知っていたりする。
「生理前のイライラ」とはつまり、PMS(Premenstrual Syndrome=月経前症候群)の症状の一つである。……
日本にも紹介されたこの概念は、昨今の“生理ムーブメント”も手伝って広く知られるようになり、女性がイライラしたり暴力的になったり、あるいは落ち込んだり涙もろくなったりと精神に変調をきたしやすいのは“月経前”ということが共通認識となりつつある。
しかし、つい最近まで日本では、女性が精神に変調をきたしやすいのは“月経中”と信じられており、女性の犯罪も“月経中”に多いとされていた。……
なぜこれほどまでに、「犯罪における月経要因説」が強固に信じられていたのだろうか? 月経時に放火や万引きが多いと言った説や「女は、カッとして頭にきて何をするかわからへん」といった言葉の根拠は何なのか? 本書ではまずそれらを明らかにする。そして、月経と関連づけて女性の言動を解釈することが、どのような意味を持つのか考えてみたい。
80分の71。
この数字、本書内の至るところで出くわすことになる。
唱え始めたのは誰あろう、犯罪学の父、チェーザレ・ロンブローゾに他ならない。彼が訴えたのは、いわゆる生来性犯罪人説に留まらなかった。ダーウィニズムを敷衍して、犯罪行動の原因を先祖返りに求めたというその議論のあるいは延長線上で把握されるべきなのかもしれない、彼はまた女性の先天的気質に犯罪の素因を読み解いた。曰く、女性の性格は「冷酷、短気、不道徳、不誠実、復讐心や虚栄心」が強く、とりわけ月経時においてはその傾向が加速する。
この説の証明に持ち出したのが件の数字だった。
「彼は、公務執行妨害で現行犯逮捕された80人の女性のうち、71人が月経時であったという自らが見聞した数値と、フランスの精神科医ルグラン・デュ・ソールが報告した、パリで行われた56件の女性による万引きのうち35件が月経時であったという数値を示し、月経と犯罪を“実証的”に関連づけた」。
あくまで本人から得られた証言というに過ぎない、19世紀末に提出されたこの数字が、女性と犯罪を論じる以後のディスクールにおいても度々引き合いに出される。その相関性の補強や更新を促すような新たな統計が提出されぬまま数十年と語られ続ける、今となってはそれ自体がエビデンスの欠如の無二の証拠としか見えないその数字に操られるまま、犯罪学者たちは喜々として女性の劣等性――とりわけ生理によって加速される――を正当化せんと図った。
例えばあの小酒井不木が言うことには、「先ず第一に女子には判断力が乏しい。即ち理性が乏しい。第二に女子には良心の呵責が少ない。第三に女子は空想力に富み、暗示されやすい。第四に女子には子を育てる本能が具わっている。子を育てるには、子をだます必要がある。その他なお羞恥の感の存在なども詐欺とは縁の深いものである」。そして当然のごとくに付言する、「女子をして人を詐かせ易いのは生理的に存在する月経である」と。
日本における犯罪精神医学の第一人者、中田修は断言した。「放火は女性的な犯罪であり、たとえ男が放火をしても、その者は女性的な男ではないかという推定が可能となる。実際に筆者が調査した資料のなかには、小心・内気・無力・敏感な性格のものが比較的多く、このような性格は一面女性的である」。対して筆者が補足するところでは、このテキストが著された1977年の放火での検挙者数は男性814人に対して、女性は107人、「ちなみに2018(平成30)年では、男性411人に対し女性は126人である。……どの時代を切り取ってみても、女性放火犯の人数が男性放火犯の人数を上回ったことはないのだ」。
女性をめぐるスティグマの強化に月経なる未知の現象は格好の理由づけを与えた。
もっとも、煎じ詰めれば、その教義を支える論拠に「80分の71」を超えるものはついぞ提出されない。一世紀以上にもわたって、である。
病は気から、このことわざを体現するかのような現象が月経をめぐっても観察される、そんな研究があるという。それによれば、「抑うつ、いらいら、立腹、不安などの陰性感情も、女性自身が身体的機能の変化を社会的に投影した情緒的反応であって、生理的変化の直接的な結果ではない」。
女性を抑圧するための方便として「月経」をめぐるディスクールの歴史についてはなるほど分かった。しかしどうにも靄がかかって晴れない点が投げ出される。
つまり、本当のところ、月経と情緒の関係はどうなっているのか、と。
いみじくも本書の指摘にある通り、タブーtabooはポリネシアで月経を指して言う語に由来する。この点に一定の見通しが立たないことには、今後も恐らくはミソジニーの正当化を図るべく月経はことあるごとに持ち出され続けるだろう。
あるいは事実として一定の相関が認められてしまうとしたときに、社会が与えるだろう措置は見えている、すなわち包摂ではなく排除、かくして女性差別はますます強化される運びとなろう。
このバトル・オブ・ザ・セクシーズの帰結、限りなく「歴史戦」に似る。正常性バイアスの赴くまま、実に、科学の啓蒙すらも優生思想と同じ顛末を導かずにはいない、ディストピアの必然を本書に透かす。