巌流島

 

 1386年、クリスマス数日後の寒い朝、ふたりの騎士が命を賭しておこなう決闘を見物しようと、数千もの人々がパリのとある修道院の裏手に広がる敷地に詰め掛けていた。長方形の試合場は高い木の柵に囲まれ、その柵は槍で武装した衛兵に囲まれていた。18歳のフランス国王シャルル6世は、片側に設けられた派手な観覧席に廷臣たちと座っていた。そして試合場をぐるりととり囲むようにして、見物人の大群がひしめき合っている。……

 興奮した群衆は、ふたりの猛々しい闘士と、壮麗な廷臣たちの中央にいる若い王だけでなく、ひとりの若く美しい女性にも視線を注いでいた。彼女はつま先から頭まで喪服に身を包み、ひとり、黒い布をかけた組み立て舞台に腰をおろして試合場を見おろし、やはり衛兵に囲まれている。

 彼女のために戦う闘士が、この決闘裁判で勝利をおさめて敵を殺せば、彼女は晴れて自由の身となる。しかし、彼女の闘士が殺害されれば、彼女は偽誓罪で有罪となり、命をもってその代償を支払わねばならない。

 その日は殉教者聖トマス・ベケットにちなんだ祝日であり、群衆は休日気分に浸っていた。そして、彼女にはわかっていた。群衆の多くが、ひとりの男がこの命を賭した闘いで殺害されるところだけではなく、ひとりの女が死刑になるところを見たいがために集まっていることが。

 パリの鐘が時刻を告げ、式部官が試合場に大股で歩いてはいり、静粛にと手をあげた。決闘による裁判が、いま、はじまろうとしていた。

 

 命を賭して決闘に挑む闘士、ジャン・ド・カルージュとジャック・ル・グリ、かつてこの両者は仲睦まじき盟友の契りを交わしていた。なにせカルージュが息子を授かった際にその命名をル・グリに委ねたほどの間柄である。しかしその後、両者の命運はくっきりと明暗分かれる。ル・グリは伯爵の寵愛を受けて華麗なる出世街道を駆け上がり、それに伴い富も自ずとついてくる。他方、カルージュは戦争に駆り出され、時に海を渡り、やがてシュヴァリエの称号こそ得るも、経済的なジリ貧に否みがたく追い詰められていく。決定的だったのは、カルージュの義父が治めていた領地が、伯爵を経て、ル・グリの支配下へと渡ったことだった。ここに至って、双方の対立は誰しもが知るところだった。

 そんな最中、決定的な事件が起きる。カルージュが娶ったうら若き後妻マルグリットが、留守に付け込んだル・グリによってレイプされる。彼女はそう訴えるも、ル・グリは一顧だにしない。司法に委ねてみようとはするも、その政治力ゆえ門前払いを食らう。あるいは世間は、負け組没落一家による破れかぶれのスラップ訴訟だとでもせせら笑ったことだろう。

 憤怒に震えるカルージュには、ただしひとつだけ起死回生の手段が残されていた。

「フランスの法の下では、国王に上訴する貴族の男性には、相手に“決闘裁判”を申し込む権利が認められていた。つまり、決闘によって裁判をおこなうのである。決闘裁判は、侮辱と認められたものについて名誉を守るべくおこなわれた決闘とは異なり、当日者のどちらがか偽誓をしたかを決定する正式な法手続きだった。決闘の結果は、神の意思にしたがい真実をあばくと広く信じられていた。そのため、決闘は“神の審判”つまり神判(judicium Dei)としても広く知られていた」。

 正直者に必ずや神は微笑む、その信仰が彼らを貫いていた。カルージュが勝てば妻の訴え、ル・グリの卑劣極まる凌辱の事実が認められる。だが仮に、ル・グリがカルージュを討てば、マルグリットも証言をすべて否定され、生きて火あぶりの刑に処せられる。

 

 今日において、この史実の事件を愉しむこともまた、セカンド・レイプとの誹りを免れるものではないのかもしれない。

 しかしこの1229サン=マルタン決戦、どうして血沸き肉躍らずにいられようか。世紀の一戦を大安売りするたかがショービズの格闘技ごときにこれほどの因縁と伏線をどうして用意することができるだろうか。ましてや、双方は文字通りに命を賭けているのである。

 胸高鳴らせるのは、本書の読者だけはない。時は百年戦争に十字軍、血の臭気が至るところにほとばしらずにはいない、にもかかわらずなのか、それゆえにこそなのか、名士ふたりのこのマッチ・アップは全土に渡る関心を引きつけずにはいなかった。その筆頭が国王シャルルだった。当初は1127日に組まれていたこの神判を、自身のイングランド遠征からの帰国に合わせて、約1か月の後ろ倒しにさせるほどの熱の入れようだった。何の因果か、リスケジュールされた決闘前日、シャルルは待望のお世継ぎを亡くす。しかし変わらず対局は実施され、国王も臨席した。

 

 単純な物語のセット・アップだけでも引きつけられずにはいられないというのに、歴史学者の手による本書の冴えはなんといっても、そのディテールにこそ現れる。

 以下に引くのは、彼らがまとう鉄の甲冑についての描写である。

 

 最初に布か革靴で足をおおい、そのうえに鎖かたびらか板金をつなぎあわせた鉄靴(sabatons)をはく。そのあとに鎖かたびらのすね当て(chausses)で、むこうずね、膝、腿の正面側を守る。腰から股、大腿部上部にかけては鎖かたびらの垂れでおおう。袖なしの鎖かたびらの上着haubergeon)を着て、革ベルトで腰を絞める。このうえに、うろこのような板金でおおわれ、詰め物がはいった上着を着るか、堅牢な鉄の胸甲を着る。肩や上腕部を板金でおおい、肘と前腕をべつの板金が保護する。鎖かたびらの手甲と、武器をよく握れるよう布か革の裏地がついた、巧みに接合された板金を手につける。鉄のあご当てで首を丸く囲み、最後に詰め物入りの革の帽子で頭をおおい、そのうえにヘルメットの一種であり、ちょうつがいのついた面頬をもちあげると顔とあごがでる仕組みの密閉式かぶと(bacinet)をつけ、首から肩にかけて保護する鎖綴(camail)をつける。

 

 じわりじわりと脈動が強くなる。視線がテキストに没入する。馬に、武具に、儀式に、執拗に重ねられるこうした記述のひとつひとつが、いざ決闘へ向かわんと読者を煽らずにはいない。映像作品でこのプロセスを流したところでまず間が持たない、しかしテキストならば丹念に織りなされた溜めとなる。これらはページ稼ぎではない、この溜めがあればこそ、その後の脳内にコロシアムの歓声がこだまする、剣で引き裂く鮮血の瞬間のカタルシスが爆ぜる。紛れもなく、神は細部に宿る。

 さてその決着は――神のみぞ知る。