「夫が風呂に入っていない。衣津実はバスタオルを見て、そのことに気付いた。昨日も一昨日もその前の日も、これがかかってなかったっけ? 芝生みたいな色のタオル」。
夫に尋ねてみると、「風呂には、入らないことにした」という。
彼女は当然にその理由を聞きたくはなる。
「なんでお風呂入らないの?
という問いかけを、喉の、唾を飲み込んだ時に音を立てる部分に待機させていたが、ソファに座るというよりも沈み込んでいるように見える夫を見ると、口に出すのがためらわれた」。
数日くらいは、とひとまず割り切ってみたその日々は月単位へと伸びていく。水道水の臭いが気になる、と夫は打ち明ける。
伏線はあった。風呂を断つその一月ほど前、夫がずぶ濡れで帰宅した。雨に打たれたものではない。新年会の席で後輩から「ちょっとした悪ふざけをされて」水をぶっかけられる。脱いだシャツに鼻を近づけながら「カルキくさい」とひとりごとをする。
たまにミネラルウォーターで身体を湿らせもした。強い雨にさらすことでシャワーに代えたりもした。けれども、垢と臭いはどうしようもなく募っていく。
そうして数か月が流れたある日のテレビの旅番組、映し出される透明感あるエメラルドグリーンの川面に夫が、泳ぎたいな、と呟く。その水は、衣津実の記憶にある故郷の川に限りなく似ていた。そして週末、夫婦は片道5時間の季節外れの里帰りを果たす。
水臭い。
彼女が言うことには、
「なんなんだろ、なんなんか分からんけど、風呂に入らなくなった時から、夫は向こう側にいるような感覚がある。手を伸ばせば彼女がいる場所からでも触れられるところなのだけれど、足元を見るとうすく線が引いてある。よくよく見るとその線はペンキで書いたものではなくて、地面の深いところまで抉れた割れ目で、あまりにも深いから光を吸って黒い線に見えているのだ。細い割れ目だからそこに落ちてしまうことはない。ただ、夫の立っている地面と彼女の立っている地面の間をしいかりと分けている」。
風呂に入らなくなったこの小説の前日譚など知る由もない。しかしおそらくこの「線」は、以前から夫婦を隔てていただろうことは推察される。それを象徴するのが、ノートPCやテレビから漏れ聞こえる、バラエティやドラマ、映画の音声。頻繁に書き込まれる、彼らの日常になじみ切ったこれらサウンドが示すのは、これを隙間として知覚させるような無駄話がそもそもあまり存在していなかった事実に他ならない。
「彼女もいつだってその線を越えられる。普通に歩く一歩より狭い歩幅でも越えられるような細い溝だ。だから別にいつでもいいやと思っている。夫の隣に行きたくなった時に越えるのでいいやと」自負してはみせるが、彼らを隔てる近くて遠いこのディスコミュニケーションの「線」は実のところ、克服されない、しようがない。
水と油。
やがて夫の異変を嗅ぎつけた義母がねじ込んでくる。三人で囲む中食のディナー。まさか体臭に気づいていないはずがない、しかし義母は決してそのことに触れようとはしない。
「センスのいい手土産、唐突な訪問ではあるものの先を見据えたスケジュールの提示、そして21時にこの部屋を出たとしても22時には自分の家に着き、風呂に入って眠る支度ができる距離に家があること。義母はいつも抜かりない」。
そのくせ、翌日になれば、電話越しでヒステリックにがなり立てる。
「他人をラベリングしておきながら、そのくせ深く興味を持たない」、そんな「東京という街」を義母は表象する。息子夫婦の生活を「おままごと」と冷笑する、口は出す、でも手は貸さない、パターナリスティックな介入をためらわず、しかし同時に自己責任を言い募る、義母に割り振られたのはそんなネオリベラリストの肖像。「あんたらは、いつもうるさい」、ただし、スマホを切れば、彼らも切れる。もはや血は水より薄い、その程度の関係性を「あんたら」は決して逸脱しようとはしない。
覆水盆に返らず。
やがて夫婦は、衣津実の地元へとU ターンし、山の奥深くに居を構える。彼女は契約職員として市役所で勤務することになる。夫は無職だが蓄えもあり、とりあえず食べてはいける。
市役所の同僚には、かつての友人知人が並ぶ。そんな彼らがささやく噂話が本人にも漏れ伝わる。曰く、「東京で子どもを事故で亡くし夫に暴力を振るわれるようになって逃げてきた」だの、「頭がおかしくなって人に大怪我をさせた夫を山奥の廃墟に匿っているらしい」だの。
もし仮に進学をもって上京することもない世界線を彼女が生きていたならば、やはり同じように役場勤めをして、こうした下衆な陰口を叩く側に回っていたのかもしれない。しかし一度、「東京という街」を知ってしまった彼女は、もはやその輪に溶け込むことはできない。
夫も夫で、相変わらず風呂には入れず、水道水の禁忌は解けず、川での水浴びこそ日課にはするものの、汚れは拭い落とせないままでいる。ネット回線は引かずじまい、スマホもあまり使わなくなったが、それに代わって、「和室や縁側やトイレのドアの前に点々と、読みかけの文庫本が落ちているようになった」。
本書は決して、農村と都市の二項対立をもってその決着点を求めない。アダムにおける果実と同じ、「東京という街」を知ってしまった彼らは、もう楽園には戻れない。