二期生募集
その新聞は家に間違えて配達されたものだった。間違えて配達された新聞にその記事はあった。それは俳優と脚本家、脚本家というものが何なのかよくわからなかったので辞書で調べた、を目指すものを育てる知らない名前の人の主宰する場で、馬の世話をするというのと、生まれ育った土地から遠く離れたとこにあるというのと、入学金や授業料が一切かからないというのにひかれて応募して試験を受けたら受かった。
「俳優て」
俳優になりたかったのかどうなのかはわからない。映画は好きでよく見ていた。ブルース・リーの映画や高倉健の出てくるやくざ映画は学校をさぼって見に行ったりしていた。かっこいいなぁと思いながら見ていた。俳優になりたいというよりブルース・リーになりたかった。高倉健になりたかった。
ワンクールどころか、ただの一話たりとも、脚本を手掛けたドラマを通しで見た記憶を持たない私ですらも、本書の【先生】が倉本聰を、【谷】が富良野を指していることくらいは分かる。「すべては作り話だ。遠くて薄いそのときのほんとうが、ぼくによって作り話に置きかえられた。置きかえてしまった」との断りこそあるものの、略歴をとっても、その点は別段隠そうともしていない。そして読者の過半はドキュメンタリー的な眼差しをもってこの自伝的小説を捉えるだろうことも予め踏まえて書かれている。
そのようなスキャンダラスな目線で本書を捉えるとき、今日的なコンプライアンス基準からすれば完全にアウトな話が並ぶ。「地に足のついた役者や脚本家を育てたい」と【先生】は言うものの、建設などに動員される彼らにやりがいの搾取の典型を見ることはたやすい。近隣の農家に駆り出されて自身の食い扶持を稼ぎはするものの、カロリーのプライマリー・バランスに見合わず、結果栄養失調に陥るシーンもある。「ここにいる間はぼくのいうことの全部を疑わず、まに受けてください」との訓示くらいでもパワハラ、モラハラを問うには十二分だろう。火薬庫と言ってしまえば、これほど燃やしやすい案件もそうそうあるまい。
日も昇っては落ちていく、四季だって移ろいゆく、その限りで時間は流れる。もっともそれは周期的なループを超えない。その場所は、テレビすらも遮断された昭和の富良野である。集団生活とはいえ、刺激などたかが知れている。ルーティーン化は都市型ジョブ、工場労働に限定された話ではない。
郷里に残してきた昔風にいう友達以上恋人未満の誰か、文通で一応のつながりを保ってはいた、はやがて他の男との結婚を決意する。一年も時が流れれば、そんなことも起きる。
その中で、「ぼく」も少しだけ変わる。
みんな【先生】に何かしらを判断されるのをとてもこわがっていた。向いていないといわれるのをこわがっていた。だけど向いていないと【先生】がいったとしてもそれはあくまでも【先生】の意見であって、本当にその人がそれに向いているか向いていないか、そんなことは誰にもわからないと思うのだけれども、それでも【先生】に向いていないといわれれば、ここでこれだけやって「向いていない」といわれれば、やっぱりそれなりに傷つくかもな、と思うぐらいには、ぼくもここの何かに、いつの間にかきちんと染まってはいた。しかしぼくは俳優というものに、なりたくなっていた、わけではなかった。なりたくなっていたわけじゃないのなら「向いていない」といわれても傷つく必要はない。ないのにそう思っていたのだ。染まるというのはそういうことだ。
劇的なターニング・ポイントがあるでも、動機づけを与えられるでもない。でも、このくらいには「ぼく」も「染ま」った。何があった? 時間があった。風土があった。
「意味がないなんてことはね」
「はい」
「ないよ」
「はい」
「君にはまだわからないかもしれないけど」
ただ薪として火にくべる木材に刺さった釘をあえて抜くことをめぐって、「ぼく」と【先生】との間に交わされた、会話とも呼べない何か。
もちろん、塾生のほとんどは、こんな禅問答のような会話にひたすら人生の空費を余儀なくされたことだろう。ダルビッシュ有の言うことには、「練習は噓をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ」。【先生】の言い分に理を認めることと、金田正一や沢村栄治は180km/hを投げていたというファンタジーを真に受けることはたぶん果てしなく似ている。
しかし、いずれにせよ、本書をもって数十年越しに筆者は富良野での問いに応答する。倉本へと宛てられた私信としてのこの小説に、部外者のキャンセル・カルチャーの居場所は与えられていない。
だからこそ、霧が晴れない。