新しい日常

 

 古本屋と聞いて、どんな姿を思い浮かべるだろう。

 一日のほとんどを帳場に腰掛けて過ごし、読書をしながら静かに客を待つ店主の姿だろうか。あるいは、立ち読みをする客がいればハタキをかけ、咳払いの一つでもする、気難しそうな店主の姿だろうか。ぼくも昔は、古本屋に対してそんなイメージしか持ち合わせていなかった。そもそも、ぼくが生まれ育った街には古本屋が存在しなかった。……

 古本屋に足繁く通うようになったのは、そこで働く人たちと仲良くなってからだ。本を買いに通っているうちに、帳場で話したり、閉店後にお酒を飲んだりするようになった。そうして時間をともにするにつれ、かつてイメージしていた古本屋とは違う姿が――古本屋の生活が垣間見えるようになった。その姿を、生活を書き記しておきたくて、201912月に取材にとりかかり、WEB本の雑誌で連載を始めた。ひとつのお店に3日間お邪魔させてもらって、時に雑用を手伝いながら、古本屋に流れる時間を日記のように記録する。……

 連載を始めるにあたり、まえがきを書いた。

 ぼくはそこに、「これは古本屋に流れる時間の記録であり、2020年の東京の風景の記録でもある」、と書いている。

 当初は1年間のつもりだった連載は、何度か中断を余儀なくされ、1年半続くことになった。改めて言い直せば、この本は古本屋に流れる時間の記録であり、2020年から2021年にかけての東京の風景の記録であり、生活の記録だ。

 

 フィクションにしたくなるような何かハプニングに襲われることもない3日間。古本屋をめぐるいわば日常系として、この企画は2019年の年末に立ち上げられた。昼食は専ら近所の弁当屋、閉店前から発泡酒やサワーを呷る、店や主の履歴もそこそこに、そんなどうということもない個人商店の日常の一コマが切り抜かれていくはずだった。

 しかし本書を手に取る読者ならば、誰しもが了解している、あたかもホラー、ディザスター・ムーヴィーのオープニングよろしく、忍び寄るパンデミックの脅威によって程なくしてこのつつがなき日常が覆されてしまうことを。いやむしろ、今となっては、何もかもがあからさまな伏線とすら映ってやまない、それは例えば『13日の金曜日』や『ジョーズ』のパリピたちの存在が、奪われるべきものとしての平穏の象徴として唯一機能を割り振られているように。

「ポイントになると思っているのは今年なんです」。

 2020年初頭のとある店主によるこの神託は、コロナの到来をもって現実化する。

 

「不要不急」のその波は、古本屋を襲撃せずにいなかった。緊急事態宣言によって要請されるものとしての「自粛」、この奇妙奇天烈なポスト・モダン話法の恰好の標的が、まさに古本屋だった。「『新刊書店』は社会生活を維持するための生活必需品を扱う店だから休業要請の対象外とされたのに対し、『古本屋』は趣味的要素が強いとの理由で休業要請の対象となった」。

 もちろん他の業種に漏れず、その補償としての協力金は提示された。しかしその受給条件は二転三転を繰り返す。パブリックなアナウンスメントがなされるでもなく、かけどもかけどもつながらないコールセンターへの問い合わせを店主同士がSNS上で共有することでようやく、ネット通販はあり、出張買取はなし、といったガイドラインを受け取る。

 

 欲しいテキストやテーマが定まってさえいれば、たいていの用はネットで足りる。なんなら絶版が電子書籍として蘇っているパターンもないことはない。知っての通り、本というのは嵩が張る、人通りのあるところに店を構えなければ成り立たないそのテナント・コストのわりに、利鞘がそうそう望めるものでもない。持ち込むよりもメルカリやヤフオクに流した方が高く売れるかもしれない。半ばアウトレットとしてのブックオフのようなスケールメリットも個人店には見込めない。

 アナログからデジタルへというトレンドにさらわれて、トイザらスやブロックバスターがアメリカから消滅したように、悲しいかな、普通に考えたら、古本屋というのは消えゆくビジネス・モデルの典型ともいえる。

 それでも、本書に取り上げられるような彼らは今日も古本屋を続けずにはいられない。

 ある店主は言う、「触らないとどんどん棚が死んでいくのはわかっているから、触りにこずにはいられないんですよね」。

 最新のベストセラーをまさか隠しているわけでもない、今さらメディアで話題としてクローズアップされることもない、けれども、小出しに繰り出される日常のなんとなくの並び替えによって陽の当たらなかったその本がしばしば客を呼び込んでしまう。そんな味を知ってしまってか、たとえ休みであったとして、「自分の棚を触りにいくのって、苦にならないんですよ。……『仕事が好きだから!』みたいなことではないんだけど、別に嫌じゃないしやっておくか、と」。

 別の店主も同様の証言をする。

「古本の仕事って、地味に面白いんです。もう、本を触ってるだけで面白いんですよ。……畑やってる人が『土を触っているとすっきりする』と言うのとおんなじで、触ってるだけで楽しいんです」。

「『店が生き残るためにコミュニケーションが必要だ』と言われる」この時代にあって、彼らはまず古本とコミュニケーションを交わす。新刊書店ならばテーマやレーベルごとに棚の並びは自ずと決まっている、なんなら営業担当者と売り上げデータが決めていく。図書館に至っては十進分類表からの逸脱となればおおごとである。触るというこの嗜みは、たぶん古本屋だからこそ許される。

「まったくコミュニケーションを取らないというのもひとつの選択肢だし、積極的に取ろうとする店だってあるだろうし。うちの店だと、仲良くなって長く話お客さんもいますけど、並べてある本を黙って買っていくお客さんのほうが多いです。本って基本的に、話しかけて買ってもらうものじゃないと思うから、並んでいるものを見て買ってもらうのが一番だと思ってます」。

 その何気ないラインナップこそが、店を訪れる客にとっての最高のメッセージであり、コミュニケーションとなる。

 どの産業においても、取扱可能点数をいえば、実店舗はどうあがいてもネットに勝てるはずがない。でも通販のサイトを開いてみたところで、情報の大洪水の中で何が見つかることもない。彼らには実のところ既知のコンテンツを教えることしかできない。所詮、そんなものは予め見つかっているものでしかない。

 しかし、不要不急でふと立ち寄る例えば古本屋の店先で、自分のセンサーにまるで引っかかっていないジャンルや書き手がふと目に留まることがある。そのアイテムは昨日今日、その店に流れ着いたわけではない。同じ棚の、ほんの数十センチの移動が、そんな偶然を時にもたらす。書棚を媒介とした無言のコミュニケーションが、名も知らぬからこそのサードプレイスを作り出す。

 取材を終えた帰り道、最寄りのコンビニエンスストアに立ち寄り、缶ビールを買った。この時間帯によく働いている店員さんは、「いらっしゃいませ」も「ありがとうございました」も言わないけれど、それを不快に感じたことは一度もなくて、どこか好ましく思っている。こんな状況になって、接客してくれる店員さんのこと、以前にもまして意識するようになった。言葉を交わしたこともなく、名前も知らないのに、その人のことを知っている。自分が暮らしている街だけじゃなくて、遠く離れた土地にだって、知っている誰かがいる。そんなつながりが存在することが、心の支えになっている。

 

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